ヨアンナはエヴァがエミルと結婚し、遠ざかった後のひとりの時間を『極東青年会』の活動に傾注した。
** おさらいになるが、『極東青年会』とは孤児出身のイエジ・ストシャウコフスキが提唱して結成した組織で、孤児と日本の親睦を図る事を目的に作られた組織である。**
まだ幼さが残る頃のヨアンナは青年会のマスコット的存在だったが、歳を重ね彼女も成長した。
正式にメンバーとなる17歳以降、その聡明さと、日々目を見張る美貌から頭角を現す存在となっていた。
そんな青年会で活躍するヨアンナをフィリプ・バクラ少尉は見逃さない。
情報将校として日本大使館の諜報員と連携をとるのと同じく、彼ら『極東青年会』の活動も側面から支援し続けてきた。
1939年極東青年会はこの時既《すで》に、占領ドイツ軍に対するレジスタンス活動を本格化する準備を進めていた。
そして会長のイエジ・ストシャウコフスキはドイツ軍のポーランド侵攻後直ちに青年会の幹部を招集し、対ドイツへのレジスタンス活動を目的とした『イエジキ部隊』を結成する。
レジスタンス活動と云っても、まだあどけない子供の面影を残す青年未満の少年たちの集まりに過ぎない。
今の日本で云ったら、下は高校生と同程度だと認識して欲しい。
そんな子供達の命の危険に晒すような真似は、周囲の大人たちが認めないだろう。
だが少年たちは日々成長する。
一人前とは言えなくとも、自分たちにできる事がある筈だ。
そう云って彼らは自分たちにできる事、子供でもできるような雑用から始めた。
そして次第に行動内容の幅を広げ、伝令役や、浮浪孤児のふりをしてドイツ兵に近づき、さりげなく諜報行為を展開するなど、場数を踏みながら経験を積み、責任と危険度と重要度を増す活動に従事するようになった。
そんな中、ヨアンナは結成されたばかりのイエジキ部隊に参加しながらも、表の顔として青年会での自分の役割も果たすよう努める。
その頃にはもう17歳から更に歳を重ね、おとなの女性へと成長していた彼女は、訪れる大使館員や諜報員、その他雑多の訪問客への応対役として、活躍の場を確固たるものにしていた。
そして彼女が井上敏郎を強く意識し出したのもこの頃だった。
その時はまだヨアンナと敏郎が一緒のところを目撃していないフィリプは、ヨアンナの立場から見たら多分自分はただのオジサンに過ぎないんじゃないか?と思い込んでいた。
情けないがただ遠くから眺めるだけで、話のキッカケすら作る糸口が見えない。
ただ傍観するしかない自分が情けなかった。
それでも諦めきれないフィリプは、いつも彼女を目で追った。
情報将校の立場としては、あまり日本大使館への目立った出入りは憚《はばか》られるが、出来るだけ一般人に紛れ扮装して、日本大使館主催の『孤児院を励ます会』などの交流でも彼女と出会う機会を数多く持つ努力をした。
それにしてもフィリプと敏郎は同様の諜報活動の任務を負っているのに、何故お互い面識が無かった。
何故か?
杉原千畝にとっては、どちらも連絡を取り合うある意味パートナーだったが、敏郎とフィリプは隠密に別行動するためお互いを知らない。
それは誰がナチスや赤軍に摘発されても、一網打尽にされるのを避けるための配慮と対策だった。
しかし、諜報に携わるふたりが同一の女性に恋するなんて、何と皮肉な運命なのだろう!
フィリプとヨアンナに戻る。
フィリプは歳の差が一回り以上違う彼女に対し、自分はオジサンだと自認する年上の気おくれから自然な会話などできる訳もなく、ただぎこちなく「こんにちは」だとか「こんばんは」程度の基本的な挨拶をするのが関の山だった。
ただし彼女の方はそんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ある日青く澄んだ夏空のような気持ちの良い笑顔で話しかけてくるのだった。
「まあフィリプ・バクラさん、ごきげんよう。
いつもご協力いただき、ありがとうございます。
おかげさまで子供たちも皆喜んでいますのよ!
是非今宵もごゆっくりお楽しみください。」
夏に一斉に咲き誇る花々のような匂いが伝わりそうな、軽やかな声でそう言う。
何と!!私の名をフルネームで覚えてくれている!!
単純にそれだけで嬉しかった。
でも欲を言えばもっと二人の関係を発展させ、「フィリプ」とファーストネームで呼んでくれる間柄になれたらどんなに良いか・・・。
ヨアンナは何と眩しい人だろう!
ただ若いだけの乙女には無い気品を、彼女は持っている。
近づいてくるだけで、心が打ち震えるのを強く感じる。
「そう言っていただくと返って恐縮です。
私もあなた達と同じく、日本を経験した同志だと思って参加させてもらっているのですよ。
だからそんなお気遣いは無用です。」
フィリプは自分が情報将校である事も、以前空路日本に向かい、英雄として名声を馳せた一行のメンバーであった事実も伝えていない。
でも自分が日本通で、どこかの時点で日本訪問をしたことがあるのだろう。
その程度の情報ならヨアンナは他の青年会のメンバーや、大使館員から伝え聞いていたのかもしれない。
だって私の名をフルネームで呼んでくれたのだから、慎重で堅実なヨアンナなら、私に関しての情報はある程度調べてくれていた筈。
だったらそれくらいなら、ヨアンナに直接言っても不都合はない。
そんな判断から敢えて『日本を経験した同志』と仄《ほの》めかしたのだった。
実際ヨアンナに「まぁ、そうでしたの?」などと云うリアクションは無かった。
***
彼は決してさえない風体の男ではない。
むしろ誰から見てもさわやかな好青年で、街を歩くだけで道行く女性たちが密かに振り向くほどの好男子でもある。
ただ自分より若すぎる素敵な女性に気おくれしていた。
そういう慎ましさと誠実さが彼に備わった特徴でもある。
但し、そういった純粋さや朴訥《ぼくとつ》な性格は、情報将校の資質として如何なものかとは思うが・・・。
だってスパイ映画などに登場する主人公は、自信満々で颯爽として、憎らしいほど女にモテ、時には非情なイメージがあるでしょ?
***
「そのようですね。
私たちはこの地では数少ない日本体験の絆で結ばれた友なのですね。
バクラさんは私にとって年上の方ですし、失礼ですが大切な親友のように思いたいです。」
「構いません!!是非そう思ってください。
そして困ったことがあったら遠慮なく申し出てください。
私にできることなら精一杯お手伝いさせていただきますよ。」
嬉しさのあまり、満面の笑みを添えて前のめりに彼は言った。
「ありがとうございます。
とても心強く思いますわ。
私たち青年会はいつも困難な状況の中にいて、絶えずたくさんの支援者の皆様の
お力添えを必要としています。
厚かましいとは思いますが、必要な時には遠慮なく助けを求めることになると思いますが、その時はどうぞよろしくお願いいたします。」
そう言って彼女は右手を差し出した。
「喜んで全力を尽くさせていただきます。」
ときめく心を必死で隠しながら、彼は握手した。
その時が初めて彼女に触れた瞬間だった。
その日を期に、彼と彼女は会う機会がある度に打ち解けた軽い挨拶の他、ちょっとした季節の話などを織り交ぜた会話をするようになった。
しかしふたりの距離はそれ以上進展することなく、時ばかりが過ぎていった。
その時はまだ井上敏郎と云う大きなライバルが存在していたから。
つづく