首相公邸と官邸には9時から17時までネット政変初代内閣以降、管理人が存在する。
それまでは厳重な警備員がセキュリティーを担い、来訪者たちの受付も厳しいチェックを受けて来館するのが通常だった。
政変以降もセキュリティー・システムが厳重なのはそれほど変わらないが、駅の改札のような自動入退館(改札)機が導入され、事前に承認済みの者だけに配布されたセキュリティーカードをかざし、入退館するように変更されている。
その数機ある入退館改札機の壁の隅に小さな簡易管理室が設置されており、初老の管理人がニコニコ顔で立っている。
管理人は一日二交代制で、午前ひとり、午後ひとりの勤務である。
と云っても、別段何か重大な責務を負う職種ではない。
来訪者と云えば政府高官や海外の賓客など、それぞれの側近たちが仕切るし、一般見学者たちも先導する専従の係が居るので管理人の前を素通りしてばかりだし、たまにフリーのプレスや室内工事業者など、初めての来訪者に案内をするくらいの軽微な仕事を受け持つ職種である。
しかも入退館改札機を通り中に入ると、管理人とは別の若い女性の受付が存在する。
つまり入館には警備員、管理人と受付の合計三重チェックが成され、防犯カメラでの監視体制もとられているから、厳重さは以前とさほど変わらない。
警備員はさすがに警備会社からの派遣だが、管理人と受付は官邸・公邸の維持費からの支出による直接雇用であった。
何故か?
館内機密の保持も目的だが、それ以上に身分保障と雇用の安定が約束されることで、充実・安心して働いてもらう職場環境作りが一番の狙いである。
ここに新井三郎(75)という如何にも性格温厚な管理人が居る。
彼は主に午前中の担当だが、気さくな笑顔で誰に対しても挨拶する。
板倉やSPの杉本はもちろん、平助や官房長官の田之上にまで
「おはようさん。」と腰が少々曲がり、歯が抜けクシャクシャに顔を崩した笑顔を見せてくれる人だった。
そんな彼の一番の友達は清掃担当のおばちゃん達。
掃除をしながら話しかけてくるそのおばちゃん達に、軽い世間話と天気の話をするのが楽しみのよう。
「やあ、今日の担当は新井の爺さんかい。
今日は良い天気だねぇ、いつもこうだと仕事が捗るよ。
それにしてもアンタ、今日は一段と腰が曲がっているよ!」
「やぁ、春さん、おはようさん!!
ワシャ、これ以上腰を真っ直ぐにはできないよ。
これが精一杯なんじゃ。
ホレ、なっ!」
と腰を伸ばす仕草をするが全く変わらない。
「オヤオヤ、そりゃぁ難儀なことだねえ。
私の腰は曲がってないけど、床に落ちているゴミを拾うとき痛くてね。
お互い腰には苦労するわ。」
と、年寄りがふたり集まるとお決まりの健康談議が始まる。
管理人は交代要員含めて数人、掃除のおばちゃんも10人以上の大所帯であり、それぞれが官邸・公邸を担当し、隅々まで熟知している。
お互い自然と軽い日常会話を交わす間柄になるのは当然であった。
そして頻繁に顔を出すカエデや平助の第三秘書エリカも、彼ら・彼女らの友達(?)のような気軽な関係のよう。
その和やかな雰囲気は、当初から板倉たちネット政府の世話係の狙い通りである。
どういう事か?
以前の官邸・公邸は物々しく、お高く留まった西洋のお城のようだったが、警備体制を維持しながら人のぬくもりを感じる暖かい集いの場を体現させたかったから。
官邸・公邸が権威の象徴であってはいけない。
だから前述の通り小規模ながら要予約ではあるが、少人数見学も日常的に実施している。
開かれた国の中枢を演出しているのだ。
そういう事情もあり、温和で笑顔の絶えない管理人新井三郎の存在が光ってくる。
だから決して無駄な存在なのではない。
来訪する一般人にとって、彼らは開かれた新たな官邸・公邸の象徴とさえ印象づけられているから。
そんな新井三郎であるが、彼は数年前、瀕死の状態になるまで追い詰められていたという生い立ちがある。
彼は家庭の事情で高校中退後、四十数年働いていた会社が突然倒産し、ようやく築いたささやかな家族との生活に危機が訪れる。
必死で再雇用先探しに奔走するが、高校中退、初老の彼を雇用してくれる所などいくら探しても見つからない。
それでもようやく見つけた職場は、薄給で劣悪な条件のブラックな環境だった。
たちまち生活は行き詰まり、妻は娘を連れ住んでいたアパートを出て行く。
それから耐える事十数年。
ひとりぼっちの三郎は、過酷な状況に追い打ちをかけるように体調を崩す。
そしてそんな厳しい環境の職場では、どんなに頑張っても働けなくなるのは時間の問題だった。
当然そこもクビになり、いよいよ追い詰められた三郎だが、何とか仕事を持ち直し、再び妻と娘に会いたい、呼びよせたいと一心に願い、更なる就職を諦めきれないでいた。
だが、やはり意のままにならない身体。
日頃の無理が祟り、体調は良くなるどころか悪化する一方だった。
無理もない。健康保険に加入できない程経済的に困窮し、無保険では医者に診てもらうことなど不可能。治療もされないまま放置状態だったから。
とうとう住んでいたアパートを家賃滞納で追い出され、路頭に迷う三郎。
健康を害し、仕事ができない、住所が定まっていないと就職もできない。
年金も掛けた年数不足で全く貰えず、そんな絶体絶命な状況に追い詰められた三郎は、思い余って役所に行き、生活保護の相談をする。
だが役所の窓口は冷たく突き放し、相手にしてくれない。
途方に暮れる三郎。
絶望に苛まれた彼は、橋の欄干に手を添え、いつまでも夕日を見ていた。
そんな只ならぬ様子に偶然居合わせ、気づいた板倉が声をかける。
こうして三郎は救われ現在に至る。
腰が曲がっていようが、歯が欠けていようが、ここの職場では使ってくれる。
有難くて涙が出るほど感謝している三郎にとって、笑顔で人と接するのは当然。
いつしか別れた妻や成長した娘と逢いたい。
私に愛想を尽かし罵声を浴びせ出て行った妻はともかく、とりわけ大事な娘とは。
それだけが心の支えの三郎だった。
そんな彼を知る官邸・公邸メンバーが冷たく放っておくわけがない。
皆人の痛みを知っているエキスパートだから。
井口外相と平助の外交成果でアメリカjokre大統領との交渉がまとまり、固唾を呑んで状況を見守っていた官邸メンバーたちが大いに沸きあがったある日。
日頃から支えてくれたメンバーたちに、感謝の気持ちを形にしてプレゼントしたい。
そう思った平助は、祝勝会を開催してくれるという田之上官房長官の気遣いを素直に喜んだが、そこに管理人や掃除担当のおばちゃん達はいない。
そこで平助は官邸メンバー達から少しづつカンパを募り、ささやかなながら紅葉巡りの日帰りバスツアーを計画した。
そのイベントには管理人・掃除メンバーの他、板倉・平助・田之上・SPの杉本・何故かカエデ・エリカまで参加するアットホームな催しだった。
当日三郎は持病の高血圧が原因の体調不良であったが、少々無理をして参加した。
掃除のお春さんが早起きして準備してくれたおにぎりを頬張り、幸せそう。
一方平助はこの時、掃除ガールズのアイドルだった。
カエデが用意したシャケ弁を食べながら、おばちゃん達からお茶だのお菓子だの貰いたい放題の天国にいた。
心の中で(幸せ~!)と呟く平助。
そんな様子を見てカエデが平助の後頭部をパコンと叩く。
「何するんじゃい!!」
「目尻を下げて締まりの無い顔してんじゃないよ!そんな風にボーっとしてたら一国の首相として舐められるだろ!」
「ボーっとして何が悪い!締まりの無い顔って言うが、この顔は生まれつきだし。大体カエデはそんな目尻が下がっている僕に惚れたんだろ?」
みるみるカーッと真っ赤な顔になったカエデは、一瞬にして狂暴になる。
再び平助の後頭部をスパーンと叩くが、今度は情け容赦ない強打だった。
「な、な、何を言う!馬鹿も休み休み言え!
いや、言うな!!
私が平助に惚れる?月が地球にぶつかってきても、そんな事あり得ないし!!
ホントに平助ったら馬鹿なんだから!!バカ!・・・・バカ!!」
明らかに狼狽したカエデが目を泳がせ言い放つ。
それを遠くの席でエリカがジッと見ていた。
波乱の種がこの時芽生える。
掃除ガールズに囲まれ、楽しい会話に耳を傾けながらニコニコ顔の三郎。
バスの窓の外の景色はずっと続いていた街並みから、次第に綺麗に色づいた紅葉が見え出す。
お春さんが爪楊枝に刺したたくあんを三郎に差し出しながら
「ホレ、私がつけたんだよ、ひとつ味見してみな。口に合うと良いけど。」
残り少ない歯を気にして一瞬躊躇する三郎。
たくあんの固さに、ちゃんと噛み切れるか心配だが、せっかく好意でくれるんだ。遠慮せずいただこう。なに、どうしても噛み切れなきゃ、呑み込めば良いさ。そう考え、
「お春さん、ありがとう。ウン、ウン、こりゃ良い塩加減で美味しいよ。お春さんの漬物はいつも美味しいなぁ。」
そう言って呑み込んだ。
「アンタ、さっきからずっと外ばかり眺めているねぇ。余程気に入ってるようだ。そんなに紅葉が綺麗かい?
目的地の神社の紅葉はもっと綺麗だってさ。楽しみだねぇ。」
心からウンウンと頷く三郎。彼はその心の中で、昔々の記憶の中にいた。
それはまだ楽しかった頃の家族との思い出。
生涯ただ一度だけの贅沢。妻と娘を連れて一泊の温泉旅行に行った事がある。
その時のバスの経由地がその神社だった。
昔々の遠い記憶が、今では「あれは夢だったのかもしれない。」と思える。
もう妻の顔も娘の顔も、幻のように消え去りそう。
その幻を紅葉の景色の彼方に追い続ける三郎だった。
その翌日、三郎は非番で翌々日は欠勤した。
ん?無断欠勤?珍しい。
カエデは板倉、エリカと共に板倉が用意してくれた三郎の住むアパートに様子を見に行く。
いくらドアを叩いても返事はない。
止む無く大家さんから鍵を借り、ドアを開ける。
すると布団に横たわる三郎の姿があった。
布団の廻りにいかにも素人手作りと思われる人形たちが取り囲んでいた。
きっと当時幼かった娘と作った思い出の品なのだろう。
そして三郎の枕の前には、家族と思われる写真。
彼はもうこの世の人ではなかった。
そして彼の顔は幸せに満ちた笑顔のまま。
孤独だが、かけがえのない家族の思い出に囲まれた最後だった。
手を合わせ冥福を祈る三人。
平助内閣最初で最後の旅立ちの人だった。
合掌
つづく