このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。
#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
皆さま、お疲れ様ですつい最近まで30℃近い日々だったのが一気に10℃下がってま、今は20℃前後寒い地方では10℃以下になってるところもありま...
#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
(snowdrop様のblogリンク先)
Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。
第6話 蟄居
退助が御前試技を披露した後、
お殿様の格別の計らいで
江戸勤番を命ぜられた退助。
当時土佐藩は藩主主導の藩政改革により、
革新派グループ「新おこぜ組」の
中心人物吉田東洋を起用、
新設した「仕置役(参政職)」に任じる。
そして大胆にも
旧体制の総本山的存在の家老を押しのけ
財政改革・身分制度改革・
文武官設立や西洋軍備採用、
海防強化、藩士の長崎遊学など
極めて革新的、急進的な藩政改革を断行した。
豊信(容堂)は酔狂人であるが、
福井藩主松平春嶽、
宇和島藩主伊達宗城、
薩摩藩主島津斉彬らと共に
幕末の四賢候と称される
名君でもある。
1年にわたる江戸勤番は
退助の世界観を大きく変えた。
人の多さとその賑わい。
今で云う初就職の配置先が
江戸であったと云う事は、
本格的な赴任の前の
東京での研修のような感覚か。
学問以上の「経験」と「見聞」という
代えがたい学びが、
その後の人としてのスケールを
大きく広げたようであった。
しかし人格を形成する根本が
ヤンチャ・無謀であったため、
帰藩後すぐに問題を起こす。
正義感と血気にはやる退助は、
藩全体が改革を目指すときに、
旧態依然とした感覚と態度に染まったままの
責任ある筈の一部の上士たちの鼻持ちならない
差別意識に我慢がならない。
特に下の者を小馬鹿にし、
見下す態度ばかりか、
やたら威張り散らし、
理不尽な態度をとる者を許すことができない。
そして安政3年8月8日(1856年9月6日)
街の行商人に無体な因縁をつけ、
いたぶる3人組の若い上士たちと遭遇した。
ひたすら平伏する行商人の男。
それでもしつこくいたぶる3人組。
みるみる血の気が上(のぼ)り、
疾風の如く駆けたと思ったら
三発の握りこぶしがさく裂した。
「この!いごっそう(快男児を指す土佐弁)
に泥を塗る面汚しが!!」
吐き捨てるように呟くと
その場を立ち去った。
しかし、その出来事が
大問題となる。
殴られた三人のうちひとりは
あの家老の息子。
藩をあげての改革の嵐に取り残された者たちの
不満を燻(くすぶ)らせた
不遇の象徴のような彼らにしたら、
うっ憤を晴らす受け皿が必要なのだ。
前歯を折られ、面目を失った彼は、
真実を歪曲し訴え出た。
もちろん本当の事は云えない。
でも勤番を終え、
一人前の藩士となった退助を
以前のようなガキの喧嘩として
穏便に納めるわけにはいかない。
身分をわきまえた自覚と、
責任ある態度と行動が求められるのだ。
後日極めて厳しい処分が下った。
高知城下四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)
の4年間の禁足、神田村謫居。
しかも廃嫡の上、追放という重い処分であった。
その間、退助は同じく別件で一時失脚の上、
蟄居を命ぜられた吉田東洋の訪問を受ける。
(東洋もまた浮き沈みの激しい人であった。)
自ら主宰する私塾への就学を勧める。
しかし退助は
「苟(いやし)くも侍(さむらい)たる者、
山野(さんや)を駈けるを以て学び、
知力を養ひ、武を以て尊び、
主君(きみ)の御馬前に血烟(ちけむり)を揚げて、
鎗の穂先の功名に相果て、
露と消ゆる覺悟あらば總て事は足れり。」
と言って申し入れを断る。
東洋曰く、
「およそ侍たる者、
忠を盡し藩公の馬前に相果てる心掛けは、
申すに及ばず尋常当然である。
けれども、その限りで終わるのは
小兵卒(こざむらい)であって、
汝(退助)は大将の器があり、
大業を成すにあたって学問をせずにどうするのか」
と反問する。
しかし、退助が自説を曲げる事はなく、
誘いを断り、東洋の長浜村鶴田にある
少林塾に通うことは無かった。
その小林塾というところは、
後藤象二郎、福岡孝弟(以前の喧嘩の相手)
岩崎弥太郎など、
そうそうたるメンバーが通っていた。
退助は吉田東洋の誘いを断りはしたが、
その彼の思想と人柄に影響と刺激を受け、
独学で孫子の兵法書を学び暗記した。
またその頃、地元の郷士や町人たちなど
身分の分け隔てない交流を深めている。
退助の人柄、両親からの教育環境、
江戸での見聞による経験などが
蟄居先で開花した。
廃嫡が自分を上士から
何者でもない身分に落とされ、
人という財産に目覚めたと云える。
廃嫡追放・蟄居の重い処分により、
一時は家督相続が危ぶまれたが、
一橋派の一員である藩主山内豊信が
あの有名な安政の大獄により、
幕府から蟄居の命が下る。
(山内豊信もやらかしちまった!
対立する大老井伊直弼の政争に負けた一橋派。
この時から豊信は、号を『容堂』と名乗る)
前藩主の弟、豊範に藩主の座を譲り、
代替わりの恩赦で退助の廃嫡処分が解除された。
(父の死後、220石に家禄を減ぜられ相続)
高知城下へ戻ることを許された。
つまり退助は安政の大獄により
結果として復活できたのだった。
尊王攘夷派である退助が、
ひたすら幕府を守ろうと、
強権発動の末、暗殺された井伊大老に救われた。
更にその退助が
後の討幕の立役者のひとりとなったのは、
何とも言えない歴史の皮肉と云えるだろう。
退助の性格は、確かに血の気が多いとの問題はあった。
しかし道場の有力な後継者でもある退助に、
道場の主、林弥太夫からの婚姻話が復活する。
退助21歳、里19歳になっていた。
初夏のある日。
退助はいつものように
川で鮎を手掴みにて取る
潜りの水連に興じる。
水はまだ冷たいが、
鍛錬の成果で冷水ももろともせず、
一匹、また一匹と取り続ける。
その日の成果を串刺しにて
焚火(たきび)であぶりながら、
退助は痛む腰の褌(ふんどし)の結びを緩めた。
そこは前日、
一瞬の不覚から、家にあった
突き出た家具の金属の角にぶつけた部位である。
赤く腫れあがり、
食い込む濡れた褌(ふんどし)が当たって痛い。
結びを緩めると少しは楽だ。
暫く焚火を見つめ、
鮎が焼きあがるのを待っていると、
背後から聞きなれた声がした。
「まあ、退助様、
今日は上首尾でしたのね。」
里の声であった。
小娘時代と違い、
今はひとりの女性として美しく成長した里は、
もう「退助」と呼び捨てはしない。
坊主(獲物が全く獲れなかった状態)
を予想し気を利かせ
昼食のお結びを持参してきたのだ。
お里は数本のくし刺しにした鮎を見て、
そんな心配は杞憂であったと思ったが、
大漁を素直に喜ぶ。
背後から聞こえる
お里の弾むような賞賛の声を耳にし、
退助は上機嫌で立ち上がり、
後ろを振り向いた。
その瞬間、結びの緩い褌がずり下がり落ちた。
すっぽんぽんの退助。
一瞬の事故を目の当たりにした里。
「アッ!」
どうして良いか分からないふたり。
お互い茫然と見つめ合い、
視線を逸らすとか、
前を隠すとかが思いつかない。
気まずい数秒の時間が経過し、
退助は照れ隠しで苦し紛れの言葉を発した。
「なっ?」
同意を求めるようなイントネーション。
また無言の息がつまるような
更に気まずい時間が過ぎる。
里は何も発せず、
退助はスゴスゴと褌を巻き直した。
焚火を囲み、
無言で鮎が焼きあがるのを待つふたり。
やがて呟くように里が聞く。
「『なっ?』とはなんですか?」
「・・・・・。」
「私(わたくし)に同意を求めているのですか?」
「・・・・。」
「何を同意して欲しいのですか?」
「・・・言葉の綾である。気にするでない。」
この気まずさは、
はるか昔、姉のような存在の
お菊の記憶を思い起させた。
その甘酸っぱい思い出が
お菊とお里を重ね合わさせる。
何故かお里に愛おしさを感じる。
彼女に何かかけがえのない、
大切にすべき男女の営みのようなものを感じた。
失ったお菊への想いを埋めてくれる女性(ひと)。
退助はその時、
お里を本気で嫁にしようと決意する。
退助の心の中にはお菊がまだ存在し、
記憶の上書きはできない。
しかしこの日、退助の心の中に
確固たるお里の居場所が確立した。
その三月後、両家の祝言が執り行われる。
嵐の前の、つかの間の幸せな時であった。
つづく