uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』連載版 第22話「明石元二郎大佐とフィリプ・バクラ」

2023-01-12 05:03:41 | 日記

 ここでヨアンナにとって井上敏郎以上(?)の重要な人物を紹介したい。

 

 フィリプ・バクラ

 

 彼を紹介するにあたって、時間を1941年から数十年 遡《さかのぼ》り、且つ壮大な話になることをご了承願いたい。

 

 彼はポーランド情報将校で階級は少尉。

 フィリプは一度日本を訪問している、あの時代にしては比較的珍しいポーランド人だった。

 

 そのポーランド人のフィリプが何故日本に?

 その謎は当時の世界情勢に於《お》ける日本の国策が強く影響していた。

 

 彼が日本を来訪したのは1926年であるが、彼を秘密裏に招いたのは日本の外務省であった。

 

 ではその日本の外務省が推進する国策とは?

 日本は伝統的に強国ソ連と対峙してきた。

 それも日露戦争以前から。

 日露戦争当時、日本が国力差10倍以上の強国ロシアに勝利するためには、戦争以前の事前準備として情報戦と謀略戦で勝利する事が絶対条件であった。

 そのためにはヨーロッパを舞台に情報戦・謀略戦に勝ち抜ける人物を派遣しなければならない。

 その適任の人物として1902年、明石元二郎大佐が首都ペテルブルクのロシア公使館に公使館付陸軍武官として転任、派遣された。

 前任の田中義一陸軍武官(後の首相)から業務を引き継ぎ、当時からロシア国内の情報収集、及びロシアの反政府分子との接触を試み、工作活動を行う。

 また明石元二郎大佐は、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、ポーランド社会党左右両派ほか、ロシア国内の社会主義政党指導者や民族独立運動指導者などとも会談を行い、連携する関係を構築した。

 その目的は、ロシア支配下の国や地域に於《お》ける反ロシア運動を支援、ロシア国内の反政府勢力と連絡を取りあいロシアを内側から揺さぶるためである。

 

 だが日露戦争勝利後も、依然強大な力を持ち続けるソ連は日本にとって脅威であった。

 そうした事から明石元二郎大佐が退任した後も、日本は引き続き彼が構築した情報・諜報網を維持し続けた。

(余談だが、杉原千畝が諜報組織をいち早く活用できたのも、明石の遺産を生かせたからである)

 

 そして1918年ポーランド独立に際してもこの情報・諜報網を通じ、数々の支援が行われている。

 そうした流れの中、ひとりの青年フィリプ・バクラ少尉が日本に招聘《しょうへい》された。

 と云っても彼は情報将校。

 大っぴらに盛大な歓迎を受けた訳ではなく、秘密裏に外務省の情報局ポーランド担当部署に赴き、ポーランドの国書《密書》を渡し、今後の連携確認等の事務的会談を行ったのだった。



 そんな背景からこの物語は始まる。



 1926年、8月27日、ポーランド軍テストパイロットであるボレスワフ・オルリンスキ大佐は、通信士のフィリプ・バクラ少尉、メカニックのレオナルド・クビャク軍曹とともにワルシャワから東京間10,300kmを飛行するため、晴天の中、一路東へと旅立った。

 

 これはヨーロッパ人の日本への初飛行であった。

 

 一行はモスクワ、ハルピン等を経由しながら九月5日に日本の所沢飛行場に到着し、多くの日本人から熱烈な歓迎を受けている。

 

 ポーランドは、1918年第一次世界大戦終結と共にロシア、ドイツ、オーストリア=ハガンガリー帝国支配から解放され独立、主権を回復したが、驚くべきはその後の技術の発展だった。

 

 特に注目すべきは意外にも航空技術。

 

 ズィグムント・プワフスキという一人の天才航空技術者により、1928年直列エンジンを搭載、全金属製高翼単葉機のP.1を設計している。

 当時世界最高性能を誇る戦闘機であった。

 

 その2年前の日本渡航。

 当時のポーランドの航空技術の高さを証明する画期的な出来事であり、下地である技術の水準の高さを物語っていた。

 

 

 さて、同乗したフィリプ・バクラ少尉。

 彼は盟友ボレスワフ・オルリンスキらとは別行動であった。

 日本で別々に滞在した一週間、どんな思いでいたのだろう?

 

 当時ボレスワフ・オルリンスキ大佐とメカニックのレオナルド・クビャク軍曹は大いに注目された。

 所沢飛行場に着陸した途端、多くの群衆が待ち構え、当時の新聞にも大々的に報道された。

 だがその晴れ舞台に通信士のフィリプ・バクラ少尉の姿はない。

 彼は秘密裏の訪問であったから、その存在は一切 秘匿《ひとく》された。

 

 ボレスワフ・オルリンスキ大佐とメカニックのレオナルド・クビャク軍曹が空港でタラップを降り、多数の報道陣に囲まれてもフィリプ・バクラ少尉ひとり機内に残り姿を見せなかった。

 そして一行が去った後、ひっそり外務省担当官からの出迎えを受けた。

 

 因みにこの大陸間の飛行は、当然のことながら大いに賞賛されるべき偉業である。

 それ故にこの偉業に対し、日本からは勲六等旭日章、フランスからはレジオン・ドヌール勲章が贈られていることからも、如何に大きな出来事だったかを伺《うかが》い知ることができる。

 当然フィリプ以外のふたりが立ち寄る先は人だかりができ、それは見るもの聞くものが総て初めての体験だった。

 眩暈《めまい》がするほど刺激的なのは言うまでもない。

 でもそれは別行動のフィリプ・バクラ少尉とて同様であった。

 

 ヨーロッパ諸国とは正反対の国。

 地政学上もそうだが、価値観、行動様式、建築物に対する思想、料理の伝統など、数え上げたらきりがないほどの違いに満ちた不思議の国。

 

 そもそも何故日本を目指したのか。

 日本とポーランドにはそれ以前からの深い繋がりがあり、互いが特別な国でもあった。

 

 それは戦争や諜報戦での暗躍だけではない、心温まる深い絆がある。

 それは1920年、シベリアのポーランド人孤児たちを日本が救出した出来事。

 それがきっかけで一般国民同士、親密な感情が生まれたのだった。

 

 そうした流れから、彼らの関心はアジアの他のどの地域より興味と魅力に満ち、必然的に当時の空の大冒険の目的地に日本を選ぶ。

 

 そして彼らが予想した通り、いや、期待以上の経験をすることができたのだろう。

 その証拠に、後の彼らの行動には色濃く日本滞在の影響がみられた。

 

 特にフィリプは、飛行前から何度もポーランド孤児の日本での体験を伝え聞き、(諜報のパートナーと云うだけでなく)日本という国に大いに着目していた。

 それ故目的地の選定では、ボレスワフに強く日本行きを進言したのも彼だったほどである。

 そして丁度その時節、日本からの招聘《しょうへい》もこのタイミングで持ち上がっていた。

 

 運命の渦に引き込まれるフィリプ少尉。

 その時の日本体験こそが、その後の彼の思考と行動に深く影響する事となる。

 

 帰国後彼はポーランド北部グダニスクからおよそ200km東に位置する軍の諜報施設に赴任し、行動の活動拠点とした。

 そうした地理的条件も関係し、フィリプ少尉は施設にほど近いポーランド孤児たちが帰国後過ごしたバルト海沿岸のヴェイローヴォ孤児院に足繁く通うようになる。

 日本から帰還した同胞の孤児たち。

 孤児たちはヴェイローヴォ孤児院を中心にしたメンバーで極東青年会を結成、日本との深い関係を維持していた。

 そうした理由からフィリプ少尉は興味と親近感と諜報活動のいち拠点として、足繁く通っていた。

 

 だが時が経ち訪問を重ねるにつれ、次第に彼の目的は変質していった。

 

 それは一人の少女の存在。

 

 初めて出会った時彼は20代前半、彼女はフィリプより一回り以上年下の現在の日本でいう小学6年生くらいだったが、その時すでにその夢見るような表情と、会う人に目の前がパッと明るくなったような気持ちにさせる快活さと美貌で人目につく少女だった。

 更に時が経ち、訪問回数が増えるに従い、彼女の成長がその魅力を増してきた。

 そしていつしか彼は大人なった彼女を意識し、当然のように恋をするようになっていた。

 

 彼女の名はヨアンナ




     つづく

 


『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』【カクヨム】連載版 第21話「井上敏郎と杉原千畝」

2023-01-08 02:03:08 | 日記

  ー杉原千畝ー

 

 彼は異彩な経歴の持ち主であった。

 1900年、現在の岐阜県美濃市で税務官吏を父に生を受ける。

 尋常小学校、中学校と常にオール5の成績を誇る秀才として、現在の早稲田大学教育学部に入学、しかし父の意向に反した進路を選択したとの理由で仕送りをストップされ、そんな経済的原因で中退、その後外務省留学生試験を受験、見事合格した。

 

 官費留学生として当時の中華民国・満州ハルピンに派遣され、ハルピン学園にてロシア語を猛勉強の末習得。

 1920年朝鮮駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年入営)、最終階級少尉まで昇る。

 1923年満州里(領事館)に転学。

 1924年外務省書記生として採用。

 1932年満州国外交部事務官となる。

 

 その間、千畝は『ソビエト連邦国民経済大観』を書き上げるなど、ソ連通の第一人者としての評価を得る。

 千畝はソビエト通として圧倒的な名声と実績を残したが、返ってそれが仇となった。

 関東軍はその能力を買い、千畝にスパイとしての作戦行動を命じる。

 しかし千畝はそれを断る。

 それでも尚且つ自分をスパイにさせようと強要した軍部の横暴に反発、退官し、白系ロシア人クラウディア・セミョーノヴァナ・アポロノワと結婚した。

 

 関東軍は命令を断って辞任した千畝の事を許さない。

 そこで陰湿な陰謀を企て、クラウディアはソ連側のスパイとの風評を流した。

 それが原因で千畝とクラウディアは離婚する。(これが決定的理由で満州国・関東軍と決別、そして満州には居られなくなる。)

 その後一時日本に帰国し、知人の紹介で菊池幸子と再婚。

 外務省に復帰する。

 

 早速外務省は、千畝にソビエト連邦モスクワ大使館勤務を命じる。

 

 しかしソ連通の彼は、ソ連当局から反革命白系ロシア人と深い親交があるとの濡れ衣を着せられ(その原因は後述する)、それを理由にソ連当局からペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)のレッテルを貼られる事となり、千畝のモスクワの在ソ連日本大使館への赴任は阻止された。

 

 満州の関東軍とソ連に敬遠され、活躍できる場所が狭められる結果となった千畝は、その後日本の外務省に新たな活躍の場が提示された。

 

 それはフィンランドのヘルシンキ大使館勤務を経て日本人が誰も居ない当時のリトアニアの臨時首都だったカウナス。

 そこに在日本領事館を開設、千畝ひとりだけしかいない領事館・領事代理として赴任した。

 当時 すでに現在の首都であるリガに、日本大使館が存在していたのにである。

 

 何故なぜ

 

 それは日本の外交事情の特殊な都合の、不自然な領事館開設であった。

 

 当時日本は1939年、ノモンハン事件でソ連と対決。

 手痛い敗北を喫している。

 それ故、対ソ連動向の情報収集は、喫緊の課題であった。

 日独伊三国軍事同盟締結後、ソ連の正確な動きと、独ソ戦があるかどうかの正確な見極めが是非とも必要だった。

 ソ連のシベリア駐在部隊がドイツ戦線に動員されれば、シベリアは手薄になり、満州守備のため貼り付けにされていた関東軍を自由に動かす事ができる事になる。

 

 それ故、当時のヒトラー率いるナチスドイツと、スターリン率いる赤軍が対峙する中、日本としても諜報戦で卓越した成果をあげ得る人物の派遣が必須だった。

 そこで白羽の矢が立ったのが千畝であった。

 

 実は千畝は満州時代、満州国外交部の書記官として、対ソ北満州鉄道の譲渡交渉を担当している。

 その時のソ連側の譲渡条件である要求額6億2500万円を、1億4000万円まで大幅に値引きさせた。

 当時の6億円と云ったら、日本の国家予算の1割を超す巨額な負担である。

 その要求をくつがえし、結果安く買い叩いた事で、ソ連側に不利益を被らせた外交的成果は、千畝の緻密で卓越した諜報活動と、周到な調査により示した正当な施設評価の具体的資料収集の結果となった。

「一体どうやって調べた?」それがソ連側の疑問と感想である。

 それ程正確で克明だったのだ。

 当然ソ連側は、千畝に極度の警戒感を持った。

 それこそが千畝を一流の諜報能力を持った人物と結果的に認める事になるのだった。

 当然そうした千畝による日本側外交勝利が、ソ連側の恨みを買った。

 それがキッカケで千畝はソ連側に目を付けられ『ペルソナ・ノン・グラータ』の烙印を押され、極度に警戒される立ち場となる。

 関東軍によるクラウディアのスパイ疑惑も、ソ連側のスパイとの接触疑惑も、全くのでっち上げであり、千畝の非凡な諜報能力の証左となる。

 

 そうした有能さと実績を買われた、カウナス領事館赴任の千畝に課せられた使命。

 それは誰も居ない筈の在留日本人対応などではもちろんなく、東欧諸国の動静把握などの情報収集、及び独ソ戦の時期の特定と云う、国家存亡に関わる重要な諜報活動をすることにあった。

 

 そこで登場するのがポーランド諜報機関組織との連携と情報交換。

 千畝には複数のポーランド情報将校との交流があった。

 またポーランド日本大使館などとの情報共有や、連携構築など、多岐にわたった諜報活動をしている。

 

 そうした諜報活動には当然身に危険が及ぶ可能性がある。

 それ故に活動中、身に危険が迫ったポーランド諜報将校のナチスドイツからの保護、逃亡を助ける役なども任務のうちであった。

 だからその時のためのビザ発給権限も、千畝には与えられていた。

 但し、そのビザ発給の想定は諜報活動要員のみに限られていたハズだが、想定外の事態が起きた。

 

 それはナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民が、命のビザを求めてカウナス領事館に押し寄せてきたあの有名な事件である。

 

 ある日の朝、領事館の窓の外に殺到する人々の姿に驚く千畝。

 

 彼らはナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ難民達であった。

 早くここを去らないと、捕まって殺される。

 

 切迫した彼らユダヤ人を無碍むげに見捨てる事なんて到底できない。

 千畝は、日本本国の意向に反し、大量のビザを発行した。

 その結果多くのユダヤ難民が出国でき、ナチスドイツの迫害から逃れる事ができた。

 

 千畝が救ったユダヤ難民の総数6000人以上。

 

 

 ここでひとつの疑問。

 

 

 千畝は陸軍のスパイ要請を断わったのに、何故外務省の諜報活動は引き受けたのか?

 スパイ=諜報部員ではないのか?

 実は同じ諜報活動でも、陸軍と外務省では質的な違いがあった。

 陸軍のスパイ活動とは諜報の他、謀略や破壊活動も含まれる。

 場合によっては暗殺や、濡れ技を着せての要人失脚工作などもあり得た。

 

 それに比べ外務省の諜報活動は、主に情報収集が任務で、逆に偽の情報がせネタを流す事も。

 要するに、情報戦か、破壊工作を含む謀略戦かの違いなのである。

 それはそのまま陸軍省と外務省の役割の違いであった。

 外務省は外交で有利な立場を得る事。

 陸軍省は軍事的に有能な立場を構築する事。

 だから両者の諜報活動に、質的違いがあるのは仕方なかった。




 当然暴力を含む理不尽な謀略を嫌う千畝がどちらを選ぶかは、初めからハッキリしている。




 因みに、ちょっと脱線するが、時期を同じくして(1937〜1941年にかけて)千畝が以前滞在していた満州帝国ハルピンの特務機関長樋口季一郎少将が、現地に住むユダヤ人達で構成するユダヤ人会の強い要請と懇願を受け、「ヒグチ・ルート」と呼ばれる脱出路を作った。

 シベリアから満州に逃れる事ができたユダヤ人難民を、満州にて受け入れる事を拒否する事を決定した満州国当局 (要は日本本国の意向)に従いながらも、国外に脱出させ、ユダヤ難民の総数2~3万人を救出している。(総数には諸説あり)

 杉原千畝と樋口季一郎は洋の東西で、同時期にユダヤ人救出に尽力していたのだった。

 

・・・もしかしたら共通する進歩的人道派である杉原千畝と樋口季一郎は、ハルピンあたりで面識があったのかもしれないと作者は推察している。

(また樋口季一郎少将は後にアッツ島・キスカ島での戦闘でも、歴史上名の残す作戦『キスカ島奇跡の撤退』の指令として指揮している。

 更に彼は1945年8月15日の敗戦後、北方領土の北胆に位置する占守島に攻めてきたソ連軍を撃退し、日本を守っている。)

 

 

 話が少々脱線したので、軌道修正する。






 そんな外交的大事件があった頃の前後、千畝は一人の日本人との親交を大切にしていた。

 その相手とは井上敏郎。

 一体どんな話題が成されていたのかは記録が残っていないので不明だが、東ヨーロッパの動静に深く関わっていたのは想像に難くない。

 そして彼との会見が終わった直後、杉原千畝公使はリトアニア・カウナス公使館を閉鎖、チェコ総領事館赴任を経てドイツ領ケーニヒスブルク総領事館勤務となった。

 

 ケーニヒスブルク総領事館は旧ドイツ騎士団領(現ロシア飛び地領土)にあり、カウナス領事館よりヴェイヘローヴォ孤児院に近く、井上敏郎に会うには好都合であった。

 だがあの日・・・。

 

 井上敏郎青年がドイツ軍に射殺されたとの報を受け、急ぎ駆け付けた時には彼の葬儀は終了していた。

 直接の射殺原因は井上青年の秘密裏の諜報活動発覚とは無縁であったが、脛に傷持つ身、事を荒立てたくない日本側と、誤射の責任を追及されたくないドイツ側の思惑が一致、ほぼ内輪で簡易葬儀で済ます事で手打ちをしたのだった。

 

 敏郎の仮の墓地で、ひとり手を合わせる千畝を、ヨアンナは遠くから見ていた。

 

 井上敏郎の死の責任は自分に有ると、自責の念に押し潰されたヨアンナ。

 自分さえあの惨劇の現場に駆けつけなければ、敏郎はヨアンナを庇い死なずに済んだのに。

 多くの人に止められたのに聞く耳を持たず、現場に駆けつけたヨアンナ。

 自分の浅はかで身勝手な行動が全ての原因である。

 そう思い込んだヨアンナは、気が狂いそうだった。

 

 来る日も来る日も悲嘆に暮れていたが、千畝が敏郎の墓参りのために来訪したとの知らせを受けた時だけは、ようやく何とかベッドから起き上がり、敏郎を弔う姿を見たいと思った。

 同じ日本人で親友と思われる千畝なら、きっと敏郎の御霊を安らかな場所に誘ってくれる。

 

 ヨアンナは何故かそう思ったのだった。

 何かにすがりたい。

 愛する人を死なせた苦しい気持ちを少しでも軽くできるなら、千畝の弔いを歓迎したい。

 それは無意識の救いを求める本能だったのかもしれない。



 ただ千畝自身は、ポーランド人将校など諜報活動家との関係を、抱えていた家政婦への拷問によりナチスドイツ側に発覚しており、常に監視付の行動制限を受けていた。(彼は関東軍、ソ連、及びナチスドイツからも危険視されていたのだった)

 そうした事情から、大っぴらにイエジキ部隊やその他関係者と接触する事はできず、ヨアンナと言葉を交わす機会も持つことはなかった。



 千畝は1941年11月ルーマニア・ブカレスト公使館に赴任。

 それを契機に、ヨアンナの前から姿を見せることも無くなる。

 

 そしてその後の12月8日、日本の真珠湾攻撃を期に、ワルシャワの日本大使館も閉鎖された。

 

 ロンドンに臨時の居を構えたポーランド亡命政府は、1941年12月11日、日本との秘密裏の関係を表に出すことも無く、日本に宣戦布告する。

 だが国交が断絶した後も、裏で杉原千畝領事とポーランドの将校レシェク・ダシュキェヴィチ少尉が、カウナスとケーニヒスベルクで協力関係を保ち続けた。

 ポーランドの亡命政府が日本に対して行使した宣戦布告は、イギリスなどの連合国とドイツ・イタリアなどの枢軸国に対する見せかけだった。





       

 

         つづく


『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』【カクヨム】連載版 第20話「天使の詩」

2023-01-05 05:30:46 | 日記

 戦乱が激化し、イエジキ部隊も更に危ない活動に日々を費やした。 

 また日本の外交官たちもその身に危険が迫ってきた。

 

 まず、リトアニア領事がロシアから退去の最終勧告を受け帰国の憂き目を見ることになった。

 後に有名な『いのちのビザ』の発給に杉原千畝領事はギリギリまで全精力を注いでいた。

 

 その行為は国策に反し、召喚されたら厳しい処罰が待っていることも覚悟の上。

 自分の信念に従った彼は微塵も後悔していなかった。

 リトアニアはバルト海沿岸に位置する。

 

 ヴェイヘローヴォ孤児院もバルト海沿岸。

 地理的に近い好条件もあり、敏郎との親交から度々領事と情報交換をしていたが、最終勧告を受けた日の晩、偶然(?)にも訪れていた敏郎と二人だけのささやかな送別会が行われていた。

 

 「杉原さん、無念ですね。

 任務を途中で放棄して立ち去らなければならないなんて、さぞ心残りでしょう?」

 「そうだね、ついさっきまでずーっとビザにサインし通しだったからね。

 もう幾日も朝から晩までサインしっぱなしで、右手が動かないよ。

 この身体がもうふたつから3つくらい欲しいよ。

 ハハハ・・・・。

 残念だが、こうして水で冷やしておかないと、もう字が書けないくらいだからね。

 君とこうして話していられるのも、手を水に漬けている間だけだったから、君はグッドタイミングの時に来てくれたね。

 ただ君は私の事を心配してくれたらけど、そういう君は大丈夫なのかい?

 ナチスの連中もそうそう甘い顔ばかりしてはいないだろう?

 君の任務もナチに随分警戒されているみたいじゃないか。

 もしかしたら近日中に君にも退去命令が出るかもしれないのだから、くれぐれも心残りが無いようにな。

 私も最後の最後まで、自分の信念に従って義務を果たすつもりだ。」

 

 そして翌日から彼の退去の列車に乗り込むまで続いた、命のビザ発給との戦いが始まった。

 そのおかげで、結果的に6千人以上のユダヤ人の命が救われた。

 

 その行為こそ井上敏郎が尊いと信じ、目指す行動規範であった。

 それは杉原・井上の二人にとって、例え国家の方針にそぐわなかったとしても、通すべき共通の価値観と信念である。




 一方イエジキ部隊はシベリア孤児を中心に彼らが面倒をみてきた孤児たちと、今回の戦災で家族を失った新たな孤児たちも加わり、一万数千人まで膨れ上がり一大組織に成長している。

 

 戦争による悪化に伴い、地下レジスタンス活動が激化し、イエジキ部隊に対するナチス当局の監視と警戒の目が厳しさを増した。

 イエジキ部隊は隠れ蓑に孤児院を使っていたが、突然ナチスからの強制捜査があった。

 急報を受けて駆け付けた日本大使館の書記官は、

「この孤児院は日本帝国が保護する施設である。 その庇護下の施設が日本と同盟する貴国を害するはずはない。

疑いを解き、速やかに退去されたし!」

 そう威厳をもって言い放ち、抗議した。

 しかしそう簡単に納得できないドイツ兵は

「しかし我々も確かな情報に基づき行動している。

 子供の遣いでもあるまいし、はいそうですかとそう簡単に撤収するわけにはいかない。

とにかく納得するまで捜索させてもらう!」

と突っぱねる。

 そこで書記官の後ろに控えていた敏郎が、不安におびえる孤児院に向かい、

「大丈夫!君たちが怯えることは何もない!」

そして孤児院院長を兼ねたイエジキ部隊長に向かい、

「君たち!

このドイツ人たちに日本の歌を聴かせてやってくれないか!」

と呼びかけた。

 

 イエジたちは意を決し、立ち上がると日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを日頃の慣習の成果を見せつけるように、堂々と高らかに大合唱した。

 その様子にあっけにとられ、圧倒されたドイツ兵たちは立ち去った。

 

 その頃のドイツは、先に述べたように日本との軍事同盟下にある。

 

 日本大使館には、一目も二目も置かざるを得ない状況にあった。

 そして日本大使館はその同盟を最大限活用し、イエジキ部隊を庇護した。

 しかし兵力で圧倒的に勝るナチスドイツ軍への抵抗は長くは続かず、またドイツ捜査機関特有の綿密な探索の結果、イエジキ部隊の関係者は徹底的に逮捕され、ひとりひとり着実に処刑され続けた。

 

 そして運命の日。

 

 ドイツ軍部隊がようやく突き止めたイエジキ部隊の拠点に踏み込み、多数の死者と逮捕者が出た。

 

 急報に接し、急いで拠点に駆け付けようとするヨアンナ。

 周囲の者たちは危険だから行くな!と押し止める。

 その中には特に熱心に、真剣に説得する者もいた。

 でも、その声と願いは聞き届けられない。

 ヨアンナの目にはもう何も映らず、何も聞こえなかった。

 今まで見た事の無いヨアンナの取り乱しよう。

 彼女の必死さを見て、この人を説得するのは不可能だと悟った。

 そして制止するその手を振り切るように、ヨアンナは飛び出す。

 

 その姿をいつまでも悲なし気に見つめる目・・・・。

 

 それとほぼ同時に、報を耳にしてヨアンナのもとに向かう敏郎。

 

 ふたりはドイツ兵に踏み込まれた隠れ家の手前で遭遇した。

 

 眼前の銃声と叫び声、破壊の轟音にヨアンナは取り乱し、敏郎の静止を振り切り、止めさせようと駆けだした。

 

 その動きに気づいたドイツ兵が、振り向きざまヨアンナに銃口を向けた。

 咄嗟の事で、敵に援軍・若しくは救出の仲間が現れたと思ったのだった。

 相手が女性であっても冷静さを欠き容赦ないドイツ兵は、冷徹な反応を示す。

 そして向けられた銃口が火を噴いた。

 

 刹那せつなヨアンナをかばい、前に出る敏郎。

 銃弾にさらされ、ハチの巣にされても彼は倒れなかった。

 

 思わず悲鳴を上げるヨアンナに、正気を取り戻したドイツ兵は、引き金を戻したがもはや全ては遅かった。

 

 誤って東洋人を撃ってしまった。

(もしかして日本人?同盟国だろ?面倒なことになった)

 茫然とその場に立ち尽くし、ヨアンナの腕の中で崩れる落ちる敏郎を見ていた。

 

 ヨアンナは半狂乱で敏郎にすがり、その名を呼び続ける。 

 ヨアンナに抱かれた敏郎は宙に目をやり、最後に空の青さとヨアンナの顔を焼き付けた。

 彼の眼にはお迎えの天使たちが見える。

 天使の詩と共に敏郎の魂は、よく晴れた日の青空の向こうにある天国にいざなわわれ、ゆっくり静かに目を閉じた。






       つづく


『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』カクヨム連載版 第19話「橋の上の出会い」

2023-01-03 07:00:00 | 日記

 ある日の催しは戦局厳しい状態にもかかわらず、慈善事業の寄付金を募る恒例のパーティーを密かに決行。

  つつましくも華やかな晩餐会とダンスが展開された。

 しかし、さすがに日本公使館がバックアップしているだけある。

 この日もいつものように内外の有力者、著名人などが集まり、盛況だった。

 

 この日も敏郎の姿が見える。

 

 グラスを持ちながら、見かけないある人物と何やら熱心に立ち話をしていた。

 離れた場所で、しかも難しい日本語だったので、聞き取れず何を話しているのか分からない。

 ヨアンナは敏郎が気になったが、時々チラッと見るだけで、近づいて話しかける勇気はなかった。

 でもあの方の事は勿論そうだが、あの方が話されているのが誰なのかも気になって仕方ない。

 

 ヨアンナは心の中の小さな勇気をかき集め、馴染みの公使館員に聞いてみた。

「今日はあの方もお見えなのですね。

 楽しんでいただけているかしら?

 あの熱心にお話しされていらっしゃるのはどなたでしょう?」

 視線を敏郎に向けながら、公使館員に自然な調子で声をかけてみた。

 まるで賓客を気遣うマダムのように。

 

 彼女の心の中を知ってか知らずか、館員は、

 「いつも貴女あなたは心遣いが細かいのですね。

 ああ、敏郎が話している相手は、杉原さんです。

 リトアニアに赴任した領事。

 きっとこれからもあなたたちと関りがあるかもしれないから、覚えておいてもいいと思いますよ。」

「杉原さん?」

「そう、杉原千畝領事。」

 彼女はじっとふたりを見つめているのだった。





・・・ただ、そんなヨアンナを遠くから焦がれるように見つめる別の目があった。

ヨアンナは全くその視線に気づかなかったが・・・・。






 翌日会場の片付けと後始末の残りを終えたヨアンナは、昨夜の宴の場から家路への帰途の歩みを早めていた。

 短い夏も終わり、秋を飛び越え一気に冬の風を感じ始める頃、こちらに向かう見覚えのある、いや、このような偶然を心のどこかでいつも待ちわびていた、ある姿に焦点が合った。

 深々と帽子をかぶりコートの襟を立てたその姿でも、ヨアンナには直ぐに見分けがつく。

「あの方だ!」

 歩きながら全身がワナワナ小刻みに震えるのを感じた。

 

 数秒後、向こうも私に気がついたようだ。

 歩調が心なしか早まりながらも、

「落ち着け!落ち着け!!」と念じ、距離を縮めていった。

 ふたりの間には石組の古い橋が一脚。

 

 向こうとこちらの両方が近づいた時、彼の方から声をかけてきた。

「やあ、昨晩はどうも!」

 快活な笑顔と白い歯を見せ彼は言った。

「こちらこそ、いらしていただき、感謝しております。」

 普通の会話だった。

 本来そこで終わる筈だった。

 でもここで何か話さなければ!お互いがそう思った時、押し黙る沈黙が無限の長さに感じた。

 

「そうそう、昨晩の、」

「あの時のあの方、」

 取って付けたように、不意に同時に発した互いの不自然な雰囲気と、少々 うわついた語調に可笑しさを感じ、目が合ったふたりは笑いを押し殺していたが、こらえきれず思わず吹き出し、声を出して笑い合った。

 

 同時にその時お互いが他の人達に対してとは違う、特別な感情を抱いてくれているのを感じた。

「今なんて言おうとなさったの?」

 ヨアンナは少し時間をおいて改めて聞いた。

「えぇ、昨晩のパーティーはとても楽しかったです。

 そう言おうとしました。貴女は?」

 

「・・・昨夜はどなたかと楽しそうにお話されていましたね。

 いつもとはちょっと違う貴方を見たような気がしましたわ。」

「そうですか?私は貴女に見られていたのですね。」とはにかむような笑顔で応えた

「昨夜は私にとって、もとても有意義な時間を過ごせました。

 私の話していた相手は人生の目標のような人で、私の価値観に大きな影響を与えてくれた方なのです。」

「そうだったのですか。

 そんな大切な機会に恵まれて、とても良かったと思います。

 あんな質素な慈善パーティでも、開いた甲斐はあったのですね。

 ところで私、いつも感心しているのですが、井上さんはとてもポーランド語がお上手ですが、どちらで学ばれたのですか?」

「上手だなんて、お恥ずかしい。

 私は父の仕事の関係でポーランドに居る期間が長く、その間に覚えたのです。」

「そうですか、日本の方がこちらでお仕事なさっているのは珍しいですね。

 御父上様は外交とかのお役人様なのですか?」

 

「いえ、今の私と同じ商社の社員です。

 父は仕事の関係で、様々な国を渡り歩く放浪者のような人でした。

 私は父の後を継いだというか、気がついたら父に敷かれたレールの上をまんまと歩かされていたというところです。ハハハ・・・。

 今は拠点をこちらに置いていますが、実質的な特派員なので、現地社員は私だけ、気軽なものです。」

 そう言ってまたハハハと白い歯を見せた。

 

「ところでヨアンナさんは極東青年会の活動をされていますが、日本に来られた事があるのですか?」

「はい、東京で一年お世話になっています。」

「そうでしたか、私も一度 福田会ふくでんかいの施設を訪れたことがあるのですよ。」

ヨアンナは驚き、改めて目を見開いた。

「皆様にとても良くして頂いて、私にとって夢のような日々でした。

 たくさんの方が色々な物をくださったのよ。

 ほら、こうして今でもあの時から大切にしている物があるの。」

そう言って手にした小物バッグから何やら取り出した。

 

 それは長い年月の間にすっかりくたびれてしまった鶴の折り紙だった。

 それを目にしたとき、敏郎は忘れていた昔の記憶を呼び覚ました。

「その折り鶴、見覚えがある!そう、もしかして私が作った物?」

「ええ?私は年上の日本のお兄様からいただいたの!

 もしかして貴方はあの時の日本の親切で優しかったお兄様?」

「そう言われるとお恥ずかしい!

 ああ、貴女あなたはあの時のお人形さんのように可愛かった幼い女の子のひとりだったのですね?」

「そうおっしゃられると、私の方こそ顔から火が出そうなほど恥ずかしく思います。

こんな奇跡のような偶然って本当にあるのですね!

とても嬉しいです。」

「私もそう思います!

 まさかあの時作った折り鶴を、今でもこんなに大切に持っていてくれた方がいたなんて!

 しかもそれが貴女あなただったなんて!!

 何という、何という・・・」

 驚きと喜びで敏郎は言葉に詰まった。

 しばし無言で橋の真ん中から川の流れに目をやりながら、彼女の悲劇のドラマのような人生に思いをはせ、

「貴女は生まれてからずっと、茨のような苦難の道を歩まれてきたのですね。

貴女にとって日本に滞在した時間はほんの短いものだったと思うけど、他に何か覚えていますか?」

「短い時間?とんでもない!

 私にとって永遠のような、とてもとても大切な思い出です。

 

 日本の記憶?

 そう、日本の記憶は私の宝物・・・。

 

 私が今生きているのも、希望を捨てないのも、日本で過ごせた記憶があるから。

 確かにポーランドと日本じゃ、環境も様子も全然違います。

 

 帰国して辺りを見渡しても、日本を思いだせるものなんて何もありません。

 でも私にとってどんなに距離が離れていても、変わらない大切なものがこの鶴の他にもあるの。」

「へえ、それは何ですか?」

「それはね、お日様と、お月さまと、お星さま。

 ポーランドに無い習慣で、日本独自の言葉の習慣です。

 

 『お』と『様』をつけて呼ぶのはこの三つ。

 わたくしそれって、ちょっと考えたらおかしいと思うの。

 だって太陽も月も星も天体という、ある意味ただの物体に過ぎないでしょう?

 物に過ぎないのに、『お』や『様』をつけるなんて。

 だって、テーブルや椅子に『お』と『様』をつける?

 欅の木に『お』と『様』をつけて呼ぶ?

 でも日本で暮らすうち、お日様も、お月さまも、お星さまも当たり前のようにそう思いました。

 大切な物やかけがえのない物、愛着のあるものをそう呼ぶのは、感謝の気持ちや親近感や、寄り添う気持ちの表れだと分かったの。

 

 明るい晴れた日を見ては、お日様にその暖かさに感謝し、お月さまを見ては人を想い、お星さまを見ては願うようになったのは、日本でお世話になってから。

 日本のお日様と比べ、こちらの太陽は眩しいけど、何だか低くて暗い感じがするの。

 あまりお日様と呼べるような実感が湧かないんです。

 私、日本でお世話になっているとき、窓の外に映るお月さまを見ては父と母を思い出し、お星さましか見えない夜は願うの。

『どうか父と母が夢に出てきてくれますように』って。

 その習慣は、この地に帰ってきてからも変わらず続けているわ。

 可笑しい?いい歳した娘が、月や星にそんな事思うの。

 

 それともうひとつ日本で見つけたもの、それは思い出。

 とても大切な思い出を日本は私に数え切れないほどくれました。

 日本とポーランドじゃ何もかも違うけど、変わらないのを持ち続けるのは素敵なことだと思っています。

 だから私にとってとても大切な思い出や、あのころからの習慣はかけがえのない宝物なのですよ。」

 橋の欄干から遠くを見据えるように彼女は言った。

 

 それを聞いて敏郎はすぐ隣にいる筈のヨアンナが愛おしく、しかし潜り抜けてきた苦難を理解も実感も想像もできない分、もどかしい距離を感じた。

 

 暫く無言のまま時間が過ぎ、橋の下の凍り付きそうな川の向こうを見つめながら敏郎は言った。

「(日本の思い出を)大切にしてくれてありがとう。

 うん、ありがとう・・・。

 僕は今日、ここで、この橋の上で逢えた時間ときをいつまでも忘れない。

 一生忘れない。

 目の前の美しい景色を忘れない、今感じているこの気持ちを決して忘れない。

 いつまでも。」

 

 ヨアンナも敏郎にまっすぐ向き合い、

「私も。」

 万感を込めた眼で一言そう言った。






       つづく

 


『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』カクヨム連載版第18話「『極東青年会』と『イエジキ部隊』」

2023-01-01 06:01:15 | 日記

さて、ここに祖国ポーランドと孤児たちにとって重要な人物がいる。

彼の名はイエジ・ストシャウコフスキ。

 自ら孤児出身でありながら、孤児院で働きワルシャワ大学を卒業。

 孤児教育の道へと志した。

そして17歳の時、シベリア孤児の組織を作ることを提唱。

 

ポーランドと日本の親睦を図ることを目的に「極東青年会」を結成し、自ら会長になった。

 

 最盛期には640名にも上ったという。



 ヨアンナは彼の行動力に惹かれ「極東青年会」のメンバーとなり、できる限りの貢献をして頑張ろうと考えた。

 

 だがそれは、イエジに対しての恋愛感情とは全く別の、理想に対する憧れを持っての行動だった。

 

 ヨアンナの他、成長した孤児たちは皆日本との絆絶ち難く、在ポーランド日本公使館との交流を大切にした。

 

 そして日本国政府もこの絆を大事にした。

 

 勿論人道的な結びつきによる当然の好意の延長もあるが、実はそれだけではない、

 大人おとなの事情があった。

 

 それは日本にとっての対ロシア政策が深く影響している。

 日本にとってロシアは常に仮想敵国であり、国の動向と予測の分析・対策の構築が国是である。

 

 歴史を少し遡さかのぼるが、日露戦争当時、ロシア支配下のポーランドには、二人の指導者がいた。

 

 対ロシア武装蜂起派のユゼフ・ピウスツキと、武装蜂起反対派のロマン・ドモフスキ。

 

 ふたりは日本の当時参謀本部長児玉源太郎、福島安正第二部長に面会し提案した。曰く、

「極東地域のロシア軍の三割はポーランド人である。

 我がポーランド兵は、戦闘の重大局面での離反、シベリア鉄道の破壊を約束する。

 その対価として、ポーランド兵捕虜に対する特別な待遇を願いたい」

と申し出たのだった。

 

 その提案を受け入れた証拠のように、四国松山に収容されたポーランド捕虜は、ロシア捕虜と別の場所にて特別待遇を受け、とても捕虜とは思えない厚遇と心温まるもてなしを受けた。

 

 更に対ポーランドの実質窓口となった明石元二郎大佐が中心となり、ポーランド武装蜂起支援、武器購入資金提供を実行、日露戦争勝利後はポーランド独立を助けている。

(ポーランド・ソビエト戦争も独立の背景にあった。ヨアンナたちが孤児になるキッカケの戦争)



 ポーランドと日本はそうした関係にあった。

 

「極東青年会」の活動が持つ意義は、単にイエジという青年の理想に留まるものではない。

 100年後のポートランドと日本の関係の礎であり、祖国再興と、後に他国の侵略からの防衛の役割を担う事になる重要な組織であった。

 

 そうした歴史的結びつきを背景にしながらも、国際連盟脱退、日中戦争勃発と孤立化した日本。

 その延長線上には、日独伊三国軍事同盟がある。

 日本にとってこの同盟は、ただ単に国際的孤立を避けるためだけではなく、対ソ政策でもあったのだ。

 

 当時日本は泥沼の日中戦争の真っ最中。

 関東軍が作戦展開中、満州国境沿いに対ソ守備隊を多数配置していた。

 

 やがて二度にわたるノモンハン事件を経験する。

 事件というが、実質的な戦争であった。

 

 対戦車戦で手痛い敗北を喫した日本。(但し、戦果の評価は分かれる)

 益々情勢が厳しくなる中、中国大陸に急速に覇権を広げる日本に警戒し、圧力を強める(ルーズベルトが画策)アメリカの野望さえも見えてきた。

 今後予想される対米戦のためにも、満州の守備隊(関東軍)の準備は絶対必要だった。

 そのため、ドイツには対ソ戦略で頑張ってほしい。

 ソ連軍の極東守備隊をヨーロッパ戦線に差し向けさせるためにも、同盟は必要だった。

 ただそのためには、ドイツとソ連の中間に位置するポーランドが結果的に犠牲になる。

 それは日本の望むところではないが、独ソ両国による大国間同士の領土争いに、口出しできるほどの国力も影響力も日本にはない。

 

 ポーランドが武力で蹂躙されるのを、阻止することはできないのだ。

 それならせめてポーランドに対し、できる限りの支援をすること。

 日本はその道を選んだ。

 

 そう、日本はドイツと軍事同盟を結んでおきながら、水面下でポーランド支援も行うという、二重政策を遂行していたのだった。

 

 そしてポーランドに対し支援をする理由はもうひとつ。

 ポーランド人を味方につけ、ドイツの動向、ソ連の動向の情報収集の諜報活動家として活用する事も目的だった。




 そうした事情から、日本の大使館・領事館などの在外交機関は、現地法人の保護・管理の他、日本の国策遂行・実行部隊としての側面も帯びていた。

 

 大使館員は文官と武官が存在するが、多かれ少なかれ、いずれも諜報・若しくは特務を使命のひとつとして活動していた。

 

 しかもそれは官僚のみに留まらず、民間にも特務機関からの要請を帯び、その対価として事業の支援を受け現地でビジネスを展開する者、邦人・外国人を問わずビジネスの実態を伴わない実質諜報員的な民間人も存在した。

 

 そんな情勢の中、孤児たちの主催する行事は公使館の館員も大切にし、できるだけ全員参加を原則にして応援した

 

 しかし世相は暗く厳しく悲しい時代。

 大きないくさが孤児たちの前に立ちはだかっていた。

 

 1939年ナチスドイツが突然電撃作戦で、ポーランド国境を越え侵攻してきた。

 

 イエジ青年は極東青年会を臨時招集、直ちにレジスタンス運動に参加することを決定した。

 

 部隊の名を青年の名をとり、『イエジキ部隊』と呼ばれるようになった。







 さてヨアンナだが、彼女も成長し可憐な乙女時代を過ごし、当然の流れの中「極東青年会」の一員として不動の活躍の場を確保している。

 

 彼女はその聡明さと明るさ、そして人を引き付けるような美しい娘になっていた。

 彼女自身は福祉事業家を目指す仲間の孤児たちに共鳴し、行動を共にしながら、青年会の活動では中心的存在だった。

 

 彼女が青年会に本格的に顔を出すようになったのは17~8歳の頃から。

 それ以前にもボチボチ参加してはいたが、正式なメンバーとして加入するには歳が足らなかった。

 

 そういう訳で20歳を過ぎた頃にはすっかり青年会の花となり、いつも彼女は人々の中心にいた。



 因みにエヴァはヨアンナとは別の道を選び、結婚し幸せな家庭を築くが、生涯変わらずヨアンナの友として時には一番の支援者となっていた。








 ちょうどその時、日本の公使館に出入りするようになった青年がいる。

 

 井上敏郎。

 

 福田会に孤児支援に来た当時中学2年生だった少年だ。

 

 彼はどこで覚えたかポーランド語、ドイツ語、ロシア語を駆使し、複数の公使館館員と深い交流のある民間人だった。

 

 彼は少年時代の面影を残しながら、長身の好青年になっている。

 彼は他の大使館・公使館員と共に、よく青年会の催しに参加した。

 機知に富み、ユーモアで人を笑顔にし、それでいて隙の無い所作しょさ

 館員の誰よりも洗練されていた。

 

 時々会話する青年会のメンバーも、彼には一目置いている。

 

 彼は一体何者?

 日本人には珍しくポーランド語を話し、日本の商社の社員と云っていたけど、他の社員など見た事無い。

 

 公使館員と深いつながりがありそうで、何故だか分からないが好感が持てる。

 青年会のメンバーの彼に対する評価だった。



 参考までに、日本には陸軍中野学校と呼ばれる特殊工作員養成所がある。

 そこでは当たり前のように、数か国語を自在に屈指できる人材を輩出していると聞く。

 でも其処そこはあくまで陸軍の養成所である。

 

 もし彼が特務機関員だったとしたなら、彼にはひとつ大きな弱点があり、決して向いているとは言えないだろう。

 その弱点とは?・・・・・彼は善良過ぎる事。

いざという時、非情になれそうもないのだ。

 それが彼の人柄だった。

 

 幼少期そのままに、真っ直ぐ育った彼。人の道に反する行為とは無縁の場所にいた。

 推測するに、彼は別の政府機関によって養成された特務機関員なのだろう。

 多分、外務省若しくは内務省あたりに。

 それも彼を知る者たちの、一致した人物評だった。

 だからそんな立場の者かもしれない彼が、ヨアンナと接する機会は少なくない。

 

 井上敏郎がポーランドで彼女を最初に見たのは、大人の集いに彼女が初めて顔を出した頃。

 多分17~8だったのだろう。

 可憐な彼女を一目見た時、青年敏郎は

「なんて素敵な人だろう!」

感嘆符付き(!)で見とれてしまった。

 

 彼はまだ少女だった孤児の彼女に、自分が昔『折り鶴』を贈った事を覚えていない。

 そして彼女も自分に折り鶴をくれた年上の少年が今、そばにいる彼だとは気づかなかった。

 

 『イエジキ部隊』が地下レジスタンス活動を活発化させた頃、ヨアンナも当然のように参加するようになる。

 しかしそれは命がけの行為であり、ドイツ兵にバレたら命はない。

 周囲の青年会メンバーは彼女を心配し、自重を求めた。

 

 しかし彼女は引くつもりはなかった。

 

 何故なら彼女は、孤児として沢山の人から受けてきた恩に報いる時と考えたから。

 

 今守るべきもの。それは彼女が生きてきた証。

 彼女を守るため父が母が命を落とし、シベリアから救出されるまで多くの大人たちから数え切れない助けがあった。

 

 更に日本滞在中に受けた善意。

 ピクニックで見かけた近所の子の両親に対する信頼と意地、プライド。

 ヴェイヘローヴォ孤児院や学校での生活。

 祖国ポートランドを蹂躙する者への抵抗は、自分を救ってくれた恩ある人々の行為が尊い価値があった事の証明にしたいから。

 

 勿論もちろん安全なところで幼い孤児たちの世話をすることも尊い行為ではある。

 でも命を懸けて自分を守ってくれた人々に比べたら、遠く及ばないように思う。

 

 だが本当は比べる必要なんてない。

 人はそれぞれ役割があるから。

 

 自分にふさわしい最善の行為で報いるのが、正解なのかもしれない。

 自分を守ってくれた人達は、ヨアンナが命を危険に晒す任務に就くことを望んではいない。

 幸せに生きてほしいのだ。

 人生を全うするのが一番の望みである事も分かっている。

 

 だがそれでも燃えたぎる使命感の火を消すことはできなかった。

 

 ヨアンナと井上敏郎の再会は、そんな悲しい時代を背にしていた。



 そんな時代だからこそ、ヨアンナは自分の少女時代にやってきた『笛吹き』が、再び踊り狂いながら多くの子供たちを連れ去る悲劇を強く予感していた。




 「笛吹きたちよ!立ち去れ!!」

 ヨアンナは無意識に叫んでいた。





     つづく






注: 笛吹き

 

大きな戦争の前触れに、街の大きな通りを笛を吹きながら練り歩き、ついてくる幼い子供たちを連れ去った実際に起きた事件。

その後の幼子の行方は最後まで不明だった。

徴兵され戦死した数多あまたの名もなき兵士たちも、笛吹きに連れ去られたと信じられている。