青年の夢
Eテレビで青年が銭湯の後取りが減少しているなかで、
京都の銭湯で一人孤軍奮闘して番台を守っている姿を見受けました。
青年が輝く眼と前向でしなやかな心で銭湯を守り抜く姿がとても印象的でした。
心から声援を送りたいと思います。
依然は京都の街は銭湯と寺が多いことで知られていました。
自宅に内風呂があっても銭湯に通う人が沢山います。
若い頃京都の銭湯に通った時、お湯がナミナミと溢れ綺麗でありました。
お店が多いので競い合うのでしょうか。
何に悩んでいる事すら解らないで悩み、行き詰っていた若い頃を思い出しました。
その頃は蕎麦の出前持ちをしていました。
何段も丼、セイロウを積み重ね肩に担ぎ自転車に乗り片手で運転をして運んでいました。
今は道路事情も変わり、また道路交通法に違反して出来ないことでしょう。
青年時代は、やはり自分なりの淡い夢と希望に溢れた時期でしたので、
恥ずかしい気持はありましたが、仕事上ではそれ程周りを気にすることもなく、失敗などは根深く心に留めないようでした。しかし心の中では常に煩悶して苦しんでいました。
その心が身近な親に向けられていました。まだ信仰に縁がない時でした・・・・・
『この世に於いて汝らは艱難(なやみ)に会わん。
されど喜び勇め、吾既にこの世に勝てり』とイエス言い給う。
あなたは無限の可能性をもつ偉大な存在である。
あなたの内なる理想に従って独立独歩、敢然として歩むのだ。
あなたのゆく所、ただ勝利あるのみだ!
Eテレビで青年が銭湯の後取りが減少しているなかで、
京都の銭湯で一人孤軍奮闘して番台を守っている姿を見受けました。
青年が輝く眼と前向でしなやかな心で銭湯を守り抜く姿がとても印象的でした。
心から声援を送りたいと思います。
依然は京都の街は銭湯と寺が多いことで知られていました。
自宅に内風呂があっても銭湯に通う人が沢山います。
若い頃京都の銭湯に通った時、お湯がナミナミと溢れ綺麗でありました。
お店が多いので競い合うのでしょうか。
何に悩んでいる事すら解らないで悩み、行き詰っていた若い頃を思い出しました。
その頃は蕎麦の出前持ちをしていました。
何段も丼、セイロウを積み重ね肩に担ぎ自転車に乗り片手で運転をして運んでいました。
今は道路事情も変わり、また道路交通法に違反して出来ないことでしょう。
青年時代は、やはり自分なりの淡い夢と希望に溢れた時期でしたので、
恥ずかしい気持はありましたが、仕事上ではそれ程周りを気にすることもなく、失敗などは根深く心に留めないようでした。しかし心の中では常に煩悶して苦しんでいました。
その心が身近な親に向けられていました。まだ信仰に縁がない時でした・・・・・
『この世に於いて汝らは艱難(なやみ)に会わん。
されど喜び勇め、吾既にこの世に勝てり』とイエス言い給う。
あなたは無限の可能性をもつ偉大な存在である。
あなたの内なる理想に従って独立独歩、敢然として歩むのだ。
あなたのゆく所、ただ勝利あるのみだ!
神の愛、仏の慈悲に根ざした多様性
自ら与えるものは、自ら喜びを得る
思いのままにならざる末に、新しき発想を得る
全ての経験に愛と優しさを持ちましょう
真の愛に目覚め、新しき光明世界への幕開けとなりましょう。
無重力の世界は平等で自由であるけれども、水自身がバラバラとなるように秩序性がありません。
綱を張って両方から同じ力で引くと力が均衡する事により、
亀裂が生じ切れます。
同じ力が平等に働くとバランスが崩れる。
例えば山と海が同じ高さにあるとバランスが崩れ秩序が失われます。
ライオンにはライオンの生きる大地があり、
クジラにはクジラの生きる海がある。
水稲には水稲の育つ水田があり、
松は水田で育つことが困難である。
適正に置かれた場所で生き生きと生きることは
其処には厳然たる秩序性があることである。
松葉は幹、根、大地に従い美しい緑の世界をひろげる。
決して松葉は幹、根、大地に逆らい、また否定もしない。
松は葉、幹、根、大地と協調して生きている。
色々な人種の人達は美しい青い地球のそれぞれの地域に暮らしています。
宇宙生命体の世界に『ライオンの理念』『クジラの理念』『水稲の理念』『松の理念』『人種の理念』が
宇宙生命体を貫いている。
それぞれの理念の背後に神の愛、仏の慈悲、法則、秩序が現れている。
この神の愛、仏の慈悲、秩序性に根ざし、『それぞれの理念』を認識して、理解して尊び、
多様性を認識することが必要であります。
汚れたもの、暗きもの、悪なるものは、神は造らないのであるから、
それは妄想の産物であって本来ないものである。
自ら与えるものは、自ら喜びを得る
思いのままにならざる末に、新しき発想を得る
全ての経験に愛と優しさを持ちましょう
真の愛に目覚め、新しき光明世界への幕開けとなりましょう。
無重力の世界は平等で自由であるけれども、水自身がバラバラとなるように秩序性がありません。
綱を張って両方から同じ力で引くと力が均衡する事により、
亀裂が生じ切れます。
同じ力が平等に働くとバランスが崩れる。
例えば山と海が同じ高さにあるとバランスが崩れ秩序が失われます。
ライオンにはライオンの生きる大地があり、
クジラにはクジラの生きる海がある。
水稲には水稲の育つ水田があり、
松は水田で育つことが困難である。
適正に置かれた場所で生き生きと生きることは
其処には厳然たる秩序性があることである。
松葉は幹、根、大地に従い美しい緑の世界をひろげる。
決して松葉は幹、根、大地に逆らい、また否定もしない。
松は葉、幹、根、大地と協調して生きている。
色々な人種の人達は美しい青い地球のそれぞれの地域に暮らしています。
宇宙生命体の世界に『ライオンの理念』『クジラの理念』『水稲の理念』『松の理念』『人種の理念』が
宇宙生命体を貫いている。
それぞれの理念の背後に神の愛、仏の慈悲、法則、秩序が現れている。
この神の愛、仏の慈悲、秩序性に根ざし、『それぞれの理念』を認識して、理解して尊び、
多様性を認識することが必要であります。
汚れたもの、暗きもの、悪なるものは、神は造らないのであるから、
それは妄想の産物であって本来ないものである。
冬の青い空・・・・・無限に広がる青の世界
儚い空しい無常心を転じると
そこには無限に広がる青の世界
この青い空をトンビが風にゆられ
この青い空を気ままに飛んでいる
この青い空には微塵の誇りもなく
この青い世界には微塵の穢れもなく
この青い世界には迷いもなく
この青い世界には悩みもなく
この青い世界には苦しみもなく
この青い世界には悲しみもなく
この青い世界には争いもなく
ただ何処までも青く輝くだけである
この青く輝く世界は優しさでいっぱい
この青く輝く世界は豊かさでいっぱい
この青く澄みきる温かさにつつまれる
この青い空に希望と平安と愛の祈りを
無量の勝れたる方便は実相を思うより得
一切の業障海は、皆妄想より生ず
若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え、
衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す。
観普賢菩薩行法経
儚い空しい無常心を転じると
そこには無限に広がる青の世界
この青い空をトンビが風にゆられ
この青い空を気ままに飛んでいる
この青い空には微塵の誇りもなく
この青い世界には微塵の穢れもなく
この青い世界には迷いもなく
この青い世界には悩みもなく
この青い世界には苦しみもなく
この青い世界には悲しみもなく
この青い世界には争いもなく
ただ何処までも青く輝くだけである
この青く輝く世界は優しさでいっぱい
この青く輝く世界は豊かさでいっぱい
この青く澄みきる温かさにつつまれる
この青い空に希望と平安と愛の祈りを
無量の勝れたる方便は実相を思うより得
一切の業障海は、皆妄想より生ず
若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え、
衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す。
観普賢菩薩行法経
白菜の出盛り
今新鮮な白菜が市場に沢山出回っています。
十一月頃が旬で、この一二月迄が柔らかい白菜が美味しく食べられる時期です。
年が明けると段々と硬く薹が立ちます。
和啓静寂の精神を旨とした日本料理の基本になっている茶懐石の向付、椀物、焼物、煮物、八寸などがありますが、
鍋物の旬(材料の美味磁味なるは十日間)は十一月から一二月迄が白菜、春菊、椎茸、松茸、アラ(クエ)、寒鰤、青魚、橙(ダイダイ)、紅葉おろし(大根・赤唐辛子)、柚子、アサツキ(冬の小ネギ)等があり、
また日本の豊かな水と此の山海の珍味が一同に出会い、
見事な色彩、香りと調和が演じられ、楽しく、美しく、気持よく、和やかにの『もてなしの心』が広がります。
またその食事作法も我国独特のものであります。
調味料過剰を避け、個々の材料の美味磁味の繊細な持ち味を生かし、またその材料を引き立てて調理する。
いたずらに細工、工夫に弄しない。あくまでも素朴に材料を調理する。
しかし今は一年中白菜が食べられるようになり、その調理もあまりにも人間的工夫に走り過ぎ素朴さがなくなりました。
このように野菜も『旬』と『出盛り』と『出終い』との区別が解らないようになり、
日本料理の繊細な季節感、色合い、素朴な味わい方が無くなり、濃厚で多彩な調味料が出現して、
本来の繊細な材料の美味磁味なるものが失われてきました。
やはりこれも合理主義の表れでしょうか。日本人特有の内に秘めた心の情感、派手な色を避けて、
大自然の色を大切にして来た色彩感覚、繊細な言葉の表現などが段々失われて来ているように思えて残念であります。
この様な中で今、外国の皆さん方が日本料理の繊細な季節感、色彩感覚、健康にも優しい、素朴な味わい方をよく理解され、
『和食』が世界遺産に登録され日本の美しい文化が、世界の人々に愛されいることに感慨深い気持ちで一杯です。
吾ら食事をとるに当たって先ず兄弟と仲直りしなければならない。
何故なら食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるからである。
食物をただの食物の物質の栄養分であると思う人にはそれだけしか自分に受取れないけれども、
食物を神の恵みと観、霊的実在として観るとき、それ以上のものを受取ることが出来るのであります。
人間自身が『神の子』なる『聖霊』であってその『聖霊』が神の恵みを供養され献上される、
その荘厳極まりなき行事がお食事である。こう思って食せよ。
今新鮮な白菜が市場に沢山出回っています。
十一月頃が旬で、この一二月迄が柔らかい白菜が美味しく食べられる時期です。
年が明けると段々と硬く薹が立ちます。
和啓静寂の精神を旨とした日本料理の基本になっている茶懐石の向付、椀物、焼物、煮物、八寸などがありますが、
鍋物の旬(材料の美味磁味なるは十日間)は十一月から一二月迄が白菜、春菊、椎茸、松茸、アラ(クエ)、寒鰤、青魚、橙(ダイダイ)、紅葉おろし(大根・赤唐辛子)、柚子、アサツキ(冬の小ネギ)等があり、
また日本の豊かな水と此の山海の珍味が一同に出会い、
見事な色彩、香りと調和が演じられ、楽しく、美しく、気持よく、和やかにの『もてなしの心』が広がります。
またその食事作法も我国独特のものであります。
調味料過剰を避け、個々の材料の美味磁味の繊細な持ち味を生かし、またその材料を引き立てて調理する。
いたずらに細工、工夫に弄しない。あくまでも素朴に材料を調理する。
しかし今は一年中白菜が食べられるようになり、その調理もあまりにも人間的工夫に走り過ぎ素朴さがなくなりました。
このように野菜も『旬』と『出盛り』と『出終い』との区別が解らないようになり、
日本料理の繊細な季節感、色合い、素朴な味わい方が無くなり、濃厚で多彩な調味料が出現して、
本来の繊細な材料の美味磁味なるものが失われてきました。
やはりこれも合理主義の表れでしょうか。日本人特有の内に秘めた心の情感、派手な色を避けて、
大自然の色を大切にして来た色彩感覚、繊細な言葉の表現などが段々失われて来ているように思えて残念であります。
この様な中で今、外国の皆さん方が日本料理の繊細な季節感、色彩感覚、健康にも優しい、素朴な味わい方をよく理解され、
『和食』が世界遺産に登録され日本の美しい文化が、世界の人々に愛されいることに感慨深い気持ちで一杯です。
吾ら食事をとるに当たって先ず兄弟と仲直りしなければならない。
何故なら食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるからである。
食物をただの食物の物質の栄養分であると思う人にはそれだけしか自分に受取れないけれども、
食物を神の恵みと観、霊的実在として観るとき、それ以上のものを受取ることが出来るのであります。
人間自身が『神の子』なる『聖霊』であってその『聖霊』が神の恵みを供養され献上される、
その荘厳極まりなき行事がお食事である。こう思って食せよ。
眞の幸い、眞の救い
車窓に映る冬化粧の多良岳、標高は 九九六m。長崎県では火砕流が起きた雲仙の平成新山(一四八三m)、普賢岳(一三五九m)がよく知られています。
この街にも年に数回雪が降ります。
今から三七年前に珍しく二月に大雪が降り、その朝、次女が産気づき、新車に慣れないタイヤチエンを装着して病院に走りましたが、慌てて装着したので新車のタイヤ周りが傷だらけになった苦い経験があります。
市内に田んぼ広がる田園都市です。
戦前は飛行場(海軍航空隊)がありました。跡地に馬事公園があり、現在の県運動公園には競馬場がありました。
私が勤務している病院も前身は海軍病院の分院でした。
戦後マッカーサーの指令により現厚生省に移管されました。
長崎に原爆が投下された時には、長崎から列車で原爆の被災者が運び込まれ、その時には一時、長崎大学の付属病院なりました。
その時の時代の要請で街も勤務先も医療制度も変遷して来ました。
しかし変わらないのは人の心です。
病院も技術的な要望よりも人間関係を重視した御意見が多くあります。
安心、優しさ、心遣い、安全を求めて病院に来られます。
そこには色々な人間模様がかいま見られます。人々の求めは個性も異なり多種多様であります。
人間の奥底に横たわる幸福になりたい、今此処にある問題を解決して救われたい、愛したいのに、愛することが出来ない。表面の心は浮き草の如く止めども無く漂っています。
眞の幸福、眞の救いとは何でしょうか。
表面の心を整える事も大切ですが、モット深い願いは自分自身の奥底の魂の救いであり、喜びではないでしょうか。
愛されたい、救われたいと誰しも思いますが、
もう少し自分と他を冷静に客観的に捉え相手の側のことも自分と置き換えて考えてみると、
自分の見る世界、考える世界が広く広くなります。
そうすると他の人を喜ばせたい。他の人のお役に立ちたい。他の人の喜びを我が喜びとして喜びたい。他の人の苦しみを除いてあげたい。全ての人はわが同胞である。
と云う真実の思いが湧き上がって来ます。
眞の幸い
むしろ、幸いなのは神の言葉を聴き、それを守る人である
ルカ福音書十一―二十八
神の国が来る
自分の命(いのち)を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
ルカ福音書十七―三十三
日本の武士道にも通じる言葉でもあります。
車窓に映る冬化粧の多良岳、標高は 九九六m。長崎県では火砕流が起きた雲仙の平成新山(一四八三m)、普賢岳(一三五九m)がよく知られています。
この街にも年に数回雪が降ります。
今から三七年前に珍しく二月に大雪が降り、その朝、次女が産気づき、新車に慣れないタイヤチエンを装着して病院に走りましたが、慌てて装着したので新車のタイヤ周りが傷だらけになった苦い経験があります。
市内に田んぼ広がる田園都市です。
戦前は飛行場(海軍航空隊)がありました。跡地に馬事公園があり、現在の県運動公園には競馬場がありました。
私が勤務している病院も前身は海軍病院の分院でした。
戦後マッカーサーの指令により現厚生省に移管されました。
長崎に原爆が投下された時には、長崎から列車で原爆の被災者が運び込まれ、その時には一時、長崎大学の付属病院なりました。
その時の時代の要請で街も勤務先も医療制度も変遷して来ました。
しかし変わらないのは人の心です。
病院も技術的な要望よりも人間関係を重視した御意見が多くあります。
安心、優しさ、心遣い、安全を求めて病院に来られます。
そこには色々な人間模様がかいま見られます。人々の求めは個性も異なり多種多様であります。
人間の奥底に横たわる幸福になりたい、今此処にある問題を解決して救われたい、愛したいのに、愛することが出来ない。表面の心は浮き草の如く止めども無く漂っています。
眞の幸福、眞の救いとは何でしょうか。
表面の心を整える事も大切ですが、モット深い願いは自分自身の奥底の魂の救いであり、喜びではないでしょうか。
愛されたい、救われたいと誰しも思いますが、
もう少し自分と他を冷静に客観的に捉え相手の側のことも自分と置き換えて考えてみると、
自分の見る世界、考える世界が広く広くなります。
そうすると他の人を喜ばせたい。他の人のお役に立ちたい。他の人の喜びを我が喜びとして喜びたい。他の人の苦しみを除いてあげたい。全ての人はわが同胞である。
と云う真実の思いが湧き上がって来ます。
眞の幸い
むしろ、幸いなのは神の言葉を聴き、それを守る人である
ルカ福音書十一―二十八
神の国が来る
自分の命(いのち)を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
ルカ福音書十七―三十三
日本の武士道にも通じる言葉でもあります。
瞑想の世界・・・・・目を閉じると無限の世界
もうすぐ冬至である。
勤務を終えてグズグズしているともう真っ暗である。
しかし明かりが温かく感じられ、明かりが凄く恋しい季節でもあります。
また一二月はイベントが盛り沢山でもあり、一年間の総決算を控えて猛ダッシュの月です。
この季節の夜長にふさわしい美しい名前の『星祭り』と云う供養があります。
また大嘗祭、クリスマス、除夜の鐘、夜が明けぬ前の初詣、丑満つ時の祈願、お参り等は紫外線が遮られた夜の帳が開く時間であり、霊感に溢れる時間でもあります。昼間は色々な雑用、雑念に振り回されますが、紫外線の当たらない夜、早朝の時間帯は深く心が沈潜する時であります。
特に深夜、早朝の時間は心が集中する霊感的な時間であり、偉人たちはこのような時に深い祈り、瞑想をなされ、
深い思想の発見、仏、神からの啓示を享けられました。
生命は物質の化合では出来て来ない。
本当に生きている『いのち』はいくら試験管の中で拵えようと思っても出来ないのであります。
物質は『無』が『いのち』の振動によって『化生』したものでありますから、色んなものは拵えられるけれど、物質だけでは『いのち』が出てこない。
死骸にお薬を服ましても効かないのはそれであります。
物質の中に『いのち』が入って来ると効いてくる。
紅葉の色も、花咲く色も、吾々の生々とした肉体の姿も悉く生命の振動でありまして、
モノでなく、コトバであります。
吾々の肉体も神の『いのち』の振動により『無』から『コトバ』により創られたものであります。
だから肉眼で見える自分自身の『肉体』も本来『無』いのであります。
実在するのは神の振動である無限なる『いのち』そのものである。
眼を閉じ、五感で感じられる一切の世界を絶って、本当の世界である、この神、仏の『いのち』の振動を直感的に観ずる行事が瞑想であります。
もうすぐ冬至である。
勤務を終えてグズグズしているともう真っ暗である。
しかし明かりが温かく感じられ、明かりが凄く恋しい季節でもあります。
また一二月はイベントが盛り沢山でもあり、一年間の総決算を控えて猛ダッシュの月です。
この季節の夜長にふさわしい美しい名前の『星祭り』と云う供養があります。
また大嘗祭、クリスマス、除夜の鐘、夜が明けぬ前の初詣、丑満つ時の祈願、お参り等は紫外線が遮られた夜の帳が開く時間であり、霊感に溢れる時間でもあります。昼間は色々な雑用、雑念に振り回されますが、紫外線の当たらない夜、早朝の時間帯は深く心が沈潜する時であります。
特に深夜、早朝の時間は心が集中する霊感的な時間であり、偉人たちはこのような時に深い祈り、瞑想をなされ、
深い思想の発見、仏、神からの啓示を享けられました。
生命は物質の化合では出来て来ない。
本当に生きている『いのち』はいくら試験管の中で拵えようと思っても出来ないのであります。
物質は『無』が『いのち』の振動によって『化生』したものでありますから、色んなものは拵えられるけれど、物質だけでは『いのち』が出てこない。
死骸にお薬を服ましても効かないのはそれであります。
物質の中に『いのち』が入って来ると効いてくる。
紅葉の色も、花咲く色も、吾々の生々とした肉体の姿も悉く生命の振動でありまして、
モノでなく、コトバであります。
吾々の肉体も神の『いのち』の振動により『無』から『コトバ』により創られたものであります。
だから肉眼で見える自分自身の『肉体』も本来『無』いのであります。
実在するのは神の振動である無限なる『いのち』そのものである。
眼を閉じ、五感で感じられる一切の世界を絶って、本当の世界である、この神、仏の『いのち』の振動を直感的に観ずる行事が瞑想であります。
ある番組でカンボジアの素朴で田舎の幼い少女が今迄素焼きで焼いていた器を
日本の陶芸家のサポートで釉薬を塗り新たな創作で市場に出した時、その創作価値が認められ、
皆さんに喜ばれ、貧しい生活が改善され、その少女の眼に込み上げる涙が溢れ、深い喜びを感じていました。
いと小さき愛
純粋に生きている時、
小さき優しさに感動する。
喜びに満ちている時には、
もっと大きな喜びにしか関心を持たない。
大きな喜びを得ても、
真実の愛を得ることが出来ない。
純粋に生きている時、
真実を生きている時である。
純粋に生きている時、
真実の愛に目覚めている時である。
純粋に生きている時、
いと小さき愛に感動するのである。
いと小さき愛は、我に(神)に施したものである。
天に富を積みなさい
あなたがたは地上に富を積んではならない。
そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。
富は天に積みなさい。
そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
マタイによる福音書 六―一九~二十一
日本の陶芸家のサポートで釉薬を塗り新たな創作で市場に出した時、その創作価値が認められ、
皆さんに喜ばれ、貧しい生活が改善され、その少女の眼に込み上げる涙が溢れ、深い喜びを感じていました。
いと小さき愛
純粋に生きている時、
小さき優しさに感動する。
喜びに満ちている時には、
もっと大きな喜びにしか関心を持たない。
大きな喜びを得ても、
真実の愛を得ることが出来ない。
純粋に生きている時、
真実を生きている時である。
純粋に生きている時、
真実の愛に目覚めている時である。
純粋に生きている時、
いと小さき愛に感動するのである。
いと小さき愛は、我に(神)に施したものである。
天に富を積みなさい
あなたがたは地上に富を積んではならない。
そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。
富は天に積みなさい。
そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
マタイによる福音書 六―一九~二十一