侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

夢、多重人格、善と悪 何処から来て何処へ行くのか

2019-10-01 22:34:28 | 如何に生きるか
 自分の中になにかもてあますような憤り、怒りの感情がある事を自覚したのは未だ一人で歩くのもままならない頃だったようにおもう、誰かの背なにおぶわれている時に悪意のようなものを感じて制御不能の怒りに駆られた事をボンヤリ思い出したりする、、ある日おがみやさんと言う小柄なおじいさんがやってきて、何やら強い匂いのするお灸のようなものを焚き、墨を含ませた筆でわたしの指先にお経のようなものを唱えながら何やら書いていた、すると爪の先から煙のようなものが立ち上りゆらゆらとあたかも疳の虫がたちのぼってでもいくようにみえた、、、が、なぶしがたい此の制御不能の感情は長じてからも、嫁いでからも 続いていた。
 中学生の頃か高校生の頃、そう言う自分の多重人格性というか、悪意に満ちた感情をもつ一方でとてもとても善行を積みたいと願う自分がおり、その二面性にくるしんでいた、太宰治に心酔していた時期でもあった。大家族の中で、大人の二面性にいやがおうでも向き合わざるを得なかった。厳然とある、地方の家父長制度の中で味わう不条理にもこの世の中にはあらがいきれない、何かがある事を知らされた。信心深い祖母に連れられて、必ず祥月命日にはお寺参りをし、一人暮らしの病気がちの人を納豆や豆腐をもって見舞う時の安寧、とは裏腹なもうヒトツの世界が厳然とある事を知らされ、同じ人が時としてまったく別のひとのようになると言う現実を統合出来ずに苦しかった。自分自身の中にもある、二面性、多重性、善もあり悪もある、居心地が悪かった、そんな思いを新聞の人生相談に書き送った事があった。解答して下さったなだいなださんは「人間とは得てしてそんなもので二重どころか三重、四重、多重人格なものだから、けっしてわるいことじゃない、どんどんのばしなさい、、」的なことがかいてあり、、モヤモヤした。此の解答の妙味が理解出来るようになったのはずっと後になってから、、

 そして時は立ち、あっという間にしらがのおばあさんになってしまった。気がつけば、怒りを燃やすエネルギーなんて毛ほどものこっていない、人はみな愛すべきひとに見えてきた、、それもこれも、2011年の震災を機に、思いもよらぬ人生を歩んだ過程で学ばせて頂いた、心身改造プロセスだったように思う。生きていくのに、自尊心もプライドもごうまんさも高慢ちきもぬいでぬいで脱ぎ捨てて、もう骨と皮と言うぐらいにならないと、失せはしなかったように思う。

 幼い頃にナンドモ繰り返し観た夢、盤若の面は多層な世界の側から見せられていたヴィジョンだったのかもしれない、、名ぶしがたい、世界の縁からこちらを眺めていたなにものかの眼差しだったのかもしれない。世界は多層であり、ある種の人にとって、その層は多分、超越 越境 行き来が可能のようだ。

    

 


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