仙岳も一緒に いわゆる農民側との団交に臨むか ひとたび激昂して暴徒化してしまえば
話し合いどころではなくなる。 寺の玄関脇に吊るされていた沢庵用の大根を役人に
向かつて投げつける大根投げの騒ぎに発展した。
このとき居合わせた農民は仙岳に次のような罵声を浴せている。
「百姓方は日頃田村師を蛇蝸視して居たもので在るから 大勢は張り裂けんばかりの大声にて
清水寺の田村坊主は隠密に来て居るのだ 坊主を引き摺り出して、殴き殺せなどと口々に罵り
中には師を目がけて瓦牒杯を投げる様な事態になってしまった。」
仙岳は農民からは藩の隠密と見做されされ 嫌悪される存在であった
両者の対決は 岩鼻県知事小室信夫から東京の明治新政府民部省まで巻き込み
農民側に二万数千両の訴訟費用と多くの犠牲者を出して終結する
大惣代三名は斬首 流刑一人 牢死三人 二か年以上十か年の徒罪十数人という
見るも無惨な結果となったのだ、
つづく