天保七年の大飢饉の時に、忠治が財産を投げ売って飢えに苦しむ人々を救つたという
話が伝えられている。
そのとき布施米用に使つたという米箱が 伊勢崎市の旧家に残されている。
縦横七十七ゼンチほどの杉で作った箱である ふたには三本の棧が付いている。
米二俵分が入るという。
伊勢崎市波志江町(旧三郷村)の方に、お聞きした時
「この辺りは 国定村との関係が深いのですか?」
「ここは 昔は佐波郡の三郷村といつたんです 昭和三十年に 伊勢崎市に合併されたのです。
三郷村 束村 赤堀村は たいへん交流があり 婚姻関係も多かつたのです。」l
どなたが、嫁に来た方がいるのですか?
「実はおばあさんが 国定村からここへ嫁に来たのです おばあさんの実家は名主をやっていたのです」
家は国定忠治の生家のすぐ裏にあったんです。
この家が明治二十年代に火事になったときに、おばあさんの実家から火事見舞いとして
この米箱に米を一杯入れて送られてきたんです」
天保の大飢饉のときに忠治が難民救済に使った米箱が、今に伝えられていることは
忠治伝説の証として たいへん興味深いものがある。
続く