鈴木巌恭は保泉村の蘭方医で、名は巌恭、宇を寅郷、真齊と号した。
父を良琢といい、代々医業した家柄であるが、それまで漢方医だったのであるが、
巌恭は江戸に出て二宮桃亭について蘭方を学んだのであるが、「その術大いに進み、
治療に独特する所有り」と記録にある。
修業して村に帰り、父のあとをついで医業にたずさわった。
当時の知識人はいずれも文藻家として、
何らかの文芸をたしなみ、文人つき合いしたもので、巌恭もまた俳諧に、漢詩文に深い造詣があり、
この地方文苑の常連であった。
文政二年に木島村の俳人紫陌が、関西旅行に旅立つことになった時、
保泉村長洲寺僧卵童が催主になって、盛大な送別会が催された。
会するもの数十人、そして俳人は句を、詩人は作詩を為さなければならないとしたが、
当然、厳恭もこの席にあって、送別詩をおくっている。
送玄々齊西遊
暁発天涯遠色開(暁に発す天涯遠色開く)
伝聞岐路幾雀嵬(伝え聞く岐路幾雀嵬〈さいかい〉と)
待君行詠山川勝(君を待つ行詠山川の勝)
句々括嚢持贈来(句々嚢に括り持ちて贈り来れ)
厳恭は邸内に多くの竹を植えて楽しんだと記録にある。むかしから医者は竹をきらったもので、
それは藪医者と呼ばれたからである。それは竹の清節をよろこんだからと云われる。
また言う、貧民の治を請うものあれば、力を尽してこれに応じ、その費を受けなかったという。
撰文は、金井烏州である。