上記の画像は、サトウが訪れた頃の、前橋市の産泰神社「1879年」前後の様子です、
その後、1879年9月に印刷局長大蔵大書記官得能良介から調査報告を編集するので,
古墳略説,古墳図,遺物図等をおくってほしい旨の依頼があった。
その公文書は1879年10月16日付け印刷局長,得能良介より群馬県令,揖取素彦あてに「古墳及び古器物の細密絵図の調整依頼」が群馬県立文書館に残されている。
得能良介による文章は諸田(1927)で記しているように「印刷した否や余は之を聞知しない。」とされ
諸田が掲載している図はこの際に得能良介に 提出したものであるという。
一方,大黒塚古墳出土品については,文政年間に地元の石工,山口豊威勢によって発掘されたものを当時の童姿神社神主が社宝として保存したものである。
サトウが60年位前に発掘されたと記していることとも適合する。
このときの発掘に関与した人の最後の生き残りか3年前即ち1877年に死んでいる。
かつて産奏神社か発行していた『産秦神社の景』によれば,サトウの紹介以後,
明治年間にウィリアム・ゴーランドが調査にきているらしい。
その後,1888年の「上野国郡村誌」でスケッチ図か紹介されているがサトウの
精度には劣る。
上武士(現群馬県伊勢崎市境上武士)の出土遺物については、
どの古墳から出土したものかは同定できない。
但し、文政年間に、上武士天神山古墳群の円環が数十基開墾され、
「土偶人土馬を得たりという記述がある。
サトウの60~70年前の出土という記述と適合することから,おそらく、
天神山古墳群の出土品と推定される。どのような経緯で保泉(現伊勢崎市境保泉)の鈴本家へ
遺物が入ったのか詳細は不明である。また遺物類の所在も現在は不明となっている。
つづく
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