村相撲は野外でやるんで冬場の興業はない。八卦の又の親分さんとこの仕事を手伝い、あとはひたすら稽古の毎日や。
三か月余りたった3 月 25 日 羽曳野誉田八万能まつりの宮相撲が兄貴の初土俵あった。
村相撲とはいえ、大きな興行ともなると、頭取が15名、相撲取りが700名、行司45名、世話人(スポンサー)100名という大所帯や!
勝負は5 人抜きの勝ち抜き戦やから朝から晩まで取り組みが続いた。
朝の早よから大勢の人がひっきりなしに集まって来た。
昔は、村相撲が庶民の一番の娯楽あったんや。
まどろむ暇もあらばこそ決戦告げる暁の、5丈3尺櫓の上でドドンと鳴りだす一番太鼓。
一番太鼓で目を覚まし、二番太鼓で身支度をし、三番太鼓で場所入りや。
強いとはいえ力の世界。兄貴は番付け序の口からの取り組みあった。
初の土俵の一人目は、立ち上がるなり張り手を一発。これで相手は膝を付く。
二人、三人、四人目を右に左に投げ飛ばす。
いよいよ五人目、立ち上がるなり得意の張り手。ひるんだ相手の右手を背中に担いで一本投げや!
あっという間の五人抜き。行司が軍配を挙げて勝ち名乗り。
「東、篠ヶ峰!」
祝儀袋がはさまれた御幣棒を兄貴に手渡した。
それからあちこちの祭りの興行に出て次々と五人抜きしよった。
たまに家に帰って来たときは、何十本もの御幣棒と祝儀袋束にしてオトンに渡しとった。
ほんまに優しい兄貴あった・・・。
次の大きな興行は8 月 25 日の河内長野観心寺相撲あった。
このときは、序二段・三段目・幕下を飛び越して十両になってた。
ほんでもって、ここでも五人抜きや!
次の大興行は9月1日 道明寺天満宮の八朔相撲や。この取り組みで給金が決まるという興行や!
このときには力に技がくわわって強い者なしや。番付は幕内の前頭五枚目に上がっていた。
ほんでもって、番付が上の力士を投げ飛ばして五人抜きや!
次の10 月 2 日 酒屋神社相撲(松原)では前頭筆頭になってた。
ほんでもって、もはや敵なしで小結、関脇を投げ飛ばして五人抜きや!
10月17日は喜志の宮さんの秋祭りや。17日の後宴祭には八卦の又の親分が勧進元の宮相撲があった。
兄貴も出よった。
この時は得意の張り手や投げ技は一切封印して、がっぷり四つで四人目までを寄り切った。
五人目も四つに組んでぐいぐいと押していき、相手の脚が徳俵にかかった瞬間、派手にうっちゃられて負けよった。
篠ヶ峰の初の一敗や。やっぱりわざと負けよったんやろなあ・・・。
ほんまに優しい兄貴あった・・・。
③につづく
※挿絵は『桂川力蔵 : 少年講談』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
※『相撲浮世絵複刻 第1輯』(同じ)