河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史29 明治――川面の浜②

2022年12月13日 | 歴史

この船溜まりに止まっていた舟というのは、長さ20m、幅2mほどの刀みたいに細長い舟あったから「剣先舟」というてた。その剣先船が20台ほどここに止まってた。
この辺りはなあ「川面の浜」というて船着き場あったんや。
太子(町)や大ヶ塚・森屋などの河南町。千早赤阪村。石川の上流の富田林・甲田・錦織などで採れた米・木綿・酒・油・材木なんかがこの川面の浜に集まってくる。
それを剣先舟に積んで石川を下り、大和川に入って大阪の難波まで運んでた。
帰りは、塩・肥料(干鰯)・荒物・大豆(千早の高野豆腐製造用)なんかを積んで石川を上って川面の浜で下ろされたんや。

ほれ、そこ(北側)に工場があるやろ。あの辺りには「みやでん(宮殿)」と呼ばれた、国会議事堂ほどもある問屋さんがあったんや。
(そらウソやろと思ったが、誰も何も言わない)
道を挟んだ向こう側には宿屋が二軒あった。♪有馬兵衛の向陽閣へ♪ほどもあるごっつい旅館や!
(それもウソやろ・・・)
その旅館の向こうには「みやでん」の大きな水車小屋があった。玉手山の遊園地の観覧車ほどもある水車や!
(ええかげんにしときや・・・)
そこ(東側)の堤防の向こう側はすぐに川で、「川面の渡し」という渡し舟もあった。戦艦大和ほどもある渡し舟や。
(・・・)
そやから、そこの細い道には人や大八車がうじゃうじゃ集まって来とったんや!
(そらほんまかも)
そーらもう賑やかで、八朔(大ケ塚である縁日)か東京オリンピックの入場行進ほどや。
(そらウソやろ!)

♪喜志の川面小在所なれど 浦にどんどと舟がつく♪ と唄われたほどや。
霧の都がロンドンならば、花の都はフランスのパリ。水の都は喜志の川面ちゅうこっちゃ!
♪港に赤い灯がともりゃ 残る未練のすすり泣き♪ ちゅうやっちゃわい!
ほんでもって、川面に住んでる者は、秋冬の百姓仕事が暇な時には、荷物積み下ろしで働いてけっこうな収入があった。
ほやから、他所の村とはちょっとちゃう気持ちというか気風があるのや!
せやから、川面の子は川面の者どおし仲ようせんとあかんのや!

そう言って春やんは飲み干したワンカップを右手でポケットにしまい、
「ほんで、なんでケンカしたんや?」
それを先に聞かんとあかんのとちがうんかい? と思いつつ理由を説明した。
「なんや、そんなことかいな。よっしゃ! それあったら、おっちゃんが遠山の金四郎になったろ!」
「なんやそれ?」
「裁判官やがな。これは・・・、そやなあ、相撲で言うたら取り直しや!」
「そんなん僕損するがな!」とトモヤンが言った。
「取り直し、やり直し言うても、この子(コウチャン)がするんやない。おっちゃんがするのや。おっちゃんがやって、当たろうが当たろまいが、おっちゃんのせいや。みなおっちょんが悪いんや! それでええか?」
二人がうなずいた。
「よっしゃ。どないするねん?」
コウチャンが春やんに教えた。
教えられた通り、春やんは胸にグーをつけて瓦を乗せ、よろりよろりと歩き出した。
「おっちゃん、胸から手ーはなしたらあかんねんで」とコウチャンが言った。
「わかっとるわい!」

春やんは、トモヤンが立てた瓦の前にきて、軽く前に体を傾けた。
春やんの手から瓦が真っすぐ下にスーッと落ちた。
落ちた瓦はトモヤンの立てた瓦のほんの数ミリ手前でぴたりと止まった。
「あー、惜しいなあ! もうちょっとやがな・・・。どや、これでええか?」
「殴ったんは僕やから、ごめんな」とコウチャンが言って、殴った右手を前に差し出した。
トモヤンが頬っぺたを押さえていた手を差し出して、二人は握手した。
「おお、それでこそ川面の子どもや!」
そう言って春やん、自転車に乗り、鼻歌まじりで帰って行った。
♪喜志の川面小在所なれど♪ ♪浦にどんどと舟がつくよ♪ チョイナチョイナ♪

※絵は川面出身の鶴島さんのスケッチ

コメント
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