〇着物の両腕に大きな風呂敷を掛けて素袍を着ている体。頭に鉢巻きをして前に扇子を挟み、忠臣蔵の三段目、殿中の刃傷の場の趣向。師直の物真似で、
「判官殿、貴殿のような侍は」
と言いながら、袖の中からお椀の蓋(ふた)を一枚、また一 枚また一枚と三枚出して、
「蓋だ、蓋だ、蓋三枚だ」 ※「鮒だ鮒だ、鮒侍だ」
杜陵や淀川の批判をよそに、俄興行は人気を博し、大阪名物として全国に鳴り響いていく。
江戸時代末の俄を記した書がいくつかあるのだが、活字に直されたもの(翻刻)がない。なんとか解読してやろうと思ったが、翻刻されている『古今俄選』でさえ、オチの意味がわからないものが2/3あるのでやめた。
しかたなく、話は明治へと飛ぶ。
明治に入り、大阪船場の御霊神社や座摩神社を中心に、大和屋宝楽、信濃家尾半、初春亭新玉、初春亭二玉(後の鶴家団九郎)、三玉(後の鶴家団十郎)らが俄を競い合っていた。明治11年(1879)には、中村雁治郎らも舞台に立った大阪弁天座で四本立ての合同公演が行われ、以後の十年間は大阪俄の最後の隆盛期であった。
その一方で、文明開化の波が演劇界にも押し寄せてきた。東京に端を発した演劇改良運動が大阪にも波及してきたのだ。
渋沢栄一、外山正一をはじめ、名だたる政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成し、歌舞伎を標的にして、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにし、作り話をやめることなどが申し渡された。
歌舞伎を拠り所としていた俄師たちはとまどった。歌舞伎が大きく変わりつつある一方で、歌舞伎と異なる現代劇の新派劇の登場が俄師たちにさらなる動揺を与えた。
その結果生まれたのが明治20年以降の〈新聞(しんもん)俄〉と〈改良俄〉だ。
〈新聞俄〉はその頃ようやく普及しだした新聞の記事を題材にした時事俄だった。主に京都で演じられ、そのほとんどが二人の演者の掛け合いによる〈軽口俄〉で漫才のはしりといえる。
大阪では鶴家団十郎の〈改良俄〉が人気を博した。〈改良俄〉とはいえ歌舞伎の筋書きを一部を変えただけで、最後は歌舞伎のもじりをしてオチをつけるという旧態依然としたものだった。
つまりは演劇改良運動の「改良」を拝借しただけのことだった。おまけに、当時人気の市川團十郎と座付き作家の鶴屋南北の名もパクッている。なんともしたたかである。
とはいえ、団十郎一座の芸風は、より笑いを強調する吉本新喜劇風に近かったので人気を博し、明治二十七年には千日前の改良座で常打ち公演、三十年代に全盛期をむかえていた。
明治36年(1903)、鶴屋団十郎の俄を見て感化された中村珊之助(さんのすけ)と中村時代という二人の歌舞伎役者がいた。
団十郎のような笑いを中心にした新しい演劇を目指して、前後亭右、左と名乗り「新喜劇」の看板で一座を結成する。
伊丹で興行をするが一日でお払い箱となる。それもそのはず、役者経験があるのは二人だけで、後は俄好きの若旦那をおだてて集めた文字通りの「俄劇団」だった。
ところが、細々と地方廻りをしていた二人に幸運が舞いこむ。
翌明治37年2月、今しも日露戦争が始まろうとしているときで、悠長に芝居見物に来る者は誰もいない。道頓堀の大劇場、浪花座でさえ休場していた。
その浪花座の席亭の高木徳兵衛に、興行師の豊島利一が「おもしろそうな劇団がある。閉めておくのはもったいないから、そいつらを使ってみてはどうや。給料はいらないと言ってるから」と話を持ち込んだ。
渡りに船と高木は即座に了解。それが豊島から二人に報告された。
檜舞台の浪花座と聞いて二人は天にも昇る心地で喜んだ。
これを機に芸名を曾我廼家五郎(珊之助)、十郎(時代)と改名して。曾我廼家兄弟劇(後に松竹新喜劇へと発展)を旗揚げした。
『滑稽勧進帳問答』という〈芝居俄〉仕立ての喜劇で、これを観た席亭の高木が「おもしろいがな。十日間やってみよか」とその場で決まった。
その時上演された『滑稽勧進帳問答』の台本が残されている。当時の〈芝居俄〉の台本はこれしか残っていないので、次回からしばしの間紹介する。
※上図は「大阪名所絵葉書」(大阪市立図書館アーカイブ)
※下図は鶴屋団十郎の似顔絵
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます