明治に入り、大阪船場の御霊神社や座摩神社を中心に大和屋宝楽、信濃家尾半、初春亭新玉、初春亭二玉(後の鶴家団九郎)、三玉(後の鶴家団十郎)らが俄を競い合っていた。
明治11年(1878)には、中村雁治郎らも舞台に立った大阪弁天座で四本立ての合同公演が行われ、以後の十年間は大阪俄の最後の隆盛期であった。
その一方で、文明開化の波が演劇界にも押し寄せてきた。東京に端を発した演劇改良運動が大阪にも波及してきたのだ。
渋沢栄一、外山正一をはじめ、名だたる政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成し、歌舞伎を標的にして、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにし、作り話をやめることなどが申し渡された。
歌舞伎を拠り所としていた俄師たちはと惑わざるを得なかった。歌舞伎が大きく変わりつつある一方で、歌舞伎と異なる現代劇の新派劇が俄師たちにさらなる動揺を与えた。
その結果生まれたのが明治20年以降の(書生俄)や〈新聞俄(しんもんにわか)〉だ。
〈書生俄〉は新派劇に対する現代俄で、〈新聞俄〉はその頃ようやく普及しだした新聞の記事を題材にした時事俄(軽口俄)で京都を中心に演じられていた。
その一方で、大阪で試行錯誤の末に行き着いたのが鶴家団十郎〈当時は団九郎〉の〈改良俄〉である。
三田純市氏の『上方喜劇 鶴家団十郎から藤山寛美』によれば、〈改良俄〉とはいえ、歌舞伎の筋書きを一部を変えただけで、最後は歌舞伎のもじりをしてオチをつけるという旧態依然としたものであったという。
とはいえ、団十郎一座の芸風は、より笑いを強調するアチャラカ風に近かったので人気を博し、明治27年には千日前の改良座で常打ち公演、30年代に全盛期をむかえている。
この〈改良俄〉が上方喜劇を生んだという記載が多いが、実はその前にもう一段階がある。
団十郎の〈改良俄〉を観た歌舞伎の中村珊之助という役者が「笑う芝居」を志す。尾崎紅葉が訳した短編小説「喜劇夏小袖」から「喜劇」をとり、同じ役者仲間の中村時代を誘い、新しい喜劇の一座を結成する。
やがて「滑稽勧進帳」(別項参照)という芝居が大当たりする。それが興行師の豊島寅吉の目にとまって、道頓堀の浪花座出演となった。明治37年の2月のことである。
名前も曽我廼家五郎、曽我廼家十郎とし、座員一同も曽我廼家を名乗った。曽我廼家喜劇の誕生である。
これが松竹家庭劇となり、松竹新喜劇となっていく。それを支えたのが多くの俄師であった。この過程を漫才作家の秋田實氏はこう説明している (『オチの研究』より) 。
――時代仁輪加はマゲ物アチャラカの始まり、軽口仁輪加は後に漫才の一つの要素になって行く。現代仁輪加は、言わば今の喜劇の萌芽であったが、明治のはじめからずっと後々までの大きな特徴は、幕切れが、チョンと柝が入り、幕になることであった――。
「俄は上方演芸の原点」といわれるゆえんである。
一方で座敷俄は宴席の余興として、あるいは祭礼の付随芸能として残っていく。
明治時代の〈にわか〉に関する書物のほとんどは、宴席の隠し芸の一つとして紹介されたものだ。明治二十年頃から活版印刷が進み十冊あまりが刊行されている。ところが、二十七年を境に出版されていない。
おそらく、明治二十年の出版条例・新聞紙条例の改正、明治二十六年には出版法と名称を変え、言論統制の色合いが濃くなっていった影響だろう。
明治という時代が俄という庶民に最も近い芸能を隅っこに追いやってしまった。
全国に広まった大阪俄が一つまた一つと姿を消していくのはこの頃からだった。
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