河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
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俄34 / 大楠公

2024年01月20日 | 祭と河内にわか

楠木正成が、多くの人々に親しまれるようになったのは、江戸時代初期、南北朝の争乱を描いた『太平記』の注釈書『太平記評判秘伝理尽紗』が成立してからだ。
大名・武士・儒学者にとって正成は、理想の政治家・指導者、兵学者だった。
やがて、この『太平記評判秘伝理尽砂』を台本にした「太平記読み」が民衆にも広まり、17世紀後半には講談に発展する。
民衆にとっての正成は、天皇に尽くす忠臣ではなく、権力に対して反逆し、強きをくじき弱気を助ける正義の味方だった。
反体制のシンボルとして、由比正雪や大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりとして歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなった。

この楠公像が一転したのは、『大日本史』を編集した徳川光圀が、1692年、湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立してからだ。
その後、水戸藩士の会沢正志斎が『新論』を著し、万世一系の国の形(国体)を説いて、楠木正成を神として祀ることを主張した。
殊に吉田松陰が信奉したことにより、幕末の志士や明治の政治家の間にも、楠公崇拝が広がってゆく。
明治になり、その崇拝を目に見えるものにするために楠公遺跡が整備される。
明治5年(1872) 湊川神社創建
明治7年(1874) 千早城址の社殿を修復
明治11年(1878) 楠公誕生地碑が建立
明治12年(1879) 千早城址の社殿を千早神社と改称
明治13年(1880) 観心寺の楠公首塚の修理

近鉄富田林駅前に大きな石の碑がある。
「楠氏遺跡里程標」と大書され「明治三十四年十一月建 楠氏紀勝會」とある。
明治31年に河陽鉄道の古市-富田林間が開業し、富田林駅が楠公遺蹟めぐりの出発地になった。
楠公遺蹟を持つ地元の人々の間にも関心が高まり、人々を遺蹟に向かわせる動きが始まった。
明治31年(1898) 河陽鉄道が古市-富田林を開業
明治33年(1900) 皇居外苑に大楠公馬上像完成
明治34年(1901) 富田林駅に「楠子遺跡里程標」建立
明治35年(1902) 河南鉄道長野線開業
明治36年(1903) 『楠氏遺蹟志』発刊、楠公遺蹟めぐりを奨励
明治37年(1904) 富田林中学(現富田林高校)で5/25に楠公祭、日露戦争
明治38年(1905) 小学校で楠公追慕式が始まる

『楠氏遺蹟志』の序は次のようにいう。
 忠に励み、孝を重んずるは、国民の大道なり。国危うして忠臣顕(あら)われ、家貧しうして孝子を出だす。
強きをくじき弱気を助ける庶民のヒーローだった大楠公楠正成は、忠臣として神格化され、忠孝の模範として国民に崇められるようになっていく。
千早赤坂の建水分神社(たけみくまりじんじゃ=上水分社)は、楠正成の産土神(うぶすなかみ)である。
喜志の美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ=下水分社)もまた、楠正成と浅からぬ関係がある。
神社合祀によって、神社は宗教施設ではなく、臣民に国家の精神を高揚させる施設に変貌した。
そのうえ、楠正成に関わりのある神社仏閣は楠公遺跡の聖地として変貌した。
そして、秋祭りの宮入りで奉納するようになった河内俄もまた変貌していく。

※豊原國周 筆『地名十二ヶ月之内 九月 楠正成 市川右團次』明治15 [1882]. 国立国会図書館デジタルコレクション 


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