河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史34 昭和――春やん恋しぐれ④

2023年01月08日 | 歴史

小春もわしも若かった。
よう働いたし楽しかった。せやけど、それも三年ほどや・・・。
二十歳になった昭和12年の5月頃に徴兵検査の通知がきよった。
身体に悪いところはなかったから甲種の合格や。
それを機に、小春を喜志に連れて帰って祝言をあげた。
村の中の親戚の家を小春の実家に見たてて、白無垢の着物に文金高島田で我が家まで歩いて嫁入りや。
橘小春見たさに近隣の村から人が仰山集まってきて、えらい騒ぎあった。

昭和12年の7月に日中事変が始まると、すぐに入隊通知がきて法円坂の歩兵第八連隊に入営した。
「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊」と言われた連隊や。
(京都の歩兵第9連隊を「勲章をくれんたい(もらえませんよ)」という九州弁の洒落でもわかるように、九州の連隊のやっかみや。
他所の連隊は「突撃」かけられたら突撃して玉砕するけど、八連隊はそんなことはせえへんかった。
負けるとわかってる戦いには無理をしなかった。「あほらしい」から無駄なことはしない関西人の気質や!
それでも、死んで「七生報国(七たび生まれかわつて国のために報いる)」よりも、生きて一生報国するという気概は持っていた。

半年ほど訓練をすると二等兵から一等兵になってた。
それで昭和13年の1月に満州の警護に送られた。中国を攻めている間にソ連が満州に攻めてくる可能性があったたからや。
案の定、昭和14年5月に満州とモンゴルの国境線のノモンハンにソ連が攻めてきよった。
ソ連軍は最新鋭の戦車、重砲、戦闘機や、それに対して日本側は銃剣と肉弾だけや。
こんなん勝てるはずがあるかいな。にもかかわらず、我々8連隊にも出撃命令が出た。
「あほらし、こんなん行ってられるかいな」
その直後から、8連隊では発熱や風邪や脚気や動悸やと急病人が次々と出てきたがな。
他の部隊が4日で進んだ道のりを、8連隊は1週間かけてゆっくりと進んだ。行軍中も落伍者が続出した。
そんなこんなで8連隊がノモンハンの戦場に到着したときには戦闘は終わってた。すでに日ソ停戦協定が成立した後あったんや。

出動した日本の兵隊の3分の1が死傷。仙台の第23師団にいたっては約2万人のうち7割が死傷した戦いあった。
ところが、第8連隊はほぼ無傷あった。後で、よくぞ生還したと褒美が出たほどや!
それで、わしは二年間の兵役を終えて内地に還ることができたんや。
昭和14年の暮れあった。凍りつくよな寒い日あった。
満州の広い荒野と違うて、粉浜はあいもかわらずごちゃごちゃした 浮世の裏みたいあった。
家の鍵がないんで、隣の天外さんとこのお手伝いさんに劇場に電話してもろうた。
一時間もせんうちに小春が帰ってきよった。
遠からわしを見つけて、ちゃっちゃつと走って来て、にこっと笑うて「おかえり」と言いよった。
えらいあっさりしてんなと思たけど、「ご苦労様でした。お帰りなさいませ」などと堅苦しい挨拶されるより、小春らしかった。
久々にほんまもんの笑い顔を見たと思うた。
わしもにっこり笑うて、二年ぶりに狭いながらも楽しい我が家に入った。
夕方に浪花さんが「天外からです」と、カシワと卵と酒、それにご丁寧に野菜も切って持って来てくらはった。
「聞きたいこと仰山おますのやが、またゆっくり聞きまっさ。ほんで小春ちゃん、席亭に言うて明日は休みにしてもろてまっさかいに、ゆっくりしとくなはれ」
そない言うて浪花さんは、にこっと笑って帰って行かはった。

頂いたカシワををすき焼きにして小春と二人でつついて、飲んでいたら、涙が出てきよった!
「なんで泣いてんねん?」と小春が聞きよるさかいに、
「美味しゅうて泣いてんのじゃ!」言うたら、
「あほらし」と言うて笑らいよった。
そのとき、「あほらし」のお陰でこうして生きて還ってくることができたんやと思えて、わしも笑ろてしもた。
笑うふたりに浪花の春がきた・・・。

※『草原の肉弾 : ノモンハン事件全貌記』樋口紅陽 著(国立国会図書館蔵)
※『南京城総攻撃 (支那事変少年軍談)』高木義賢(同上)
※絵葉書「(大阪名勝)道頓堀」(大阪市立図書館アーカイブ)


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2023-01-21 01:08:52
山本先生は、なーんも教えんでも、行動で教えてくれた先生です。その姿を、生徒の僕は覚えています。
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Unknown (Unknown)
2023-01-21 03:07:07
山本先生は他の先生がやらんようなことでも、自分ら生徒と一緒になってやってくれた、その姿がなんか光り輝いていて、今でも忘れられません。
返信する

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