河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その十一 平安――八幡太郎は恐ろしや 前編

2022年02月10日 | 歴史

 【血で血を争う】 

 10月の上旬から秋祭りにかけての二週間ほどが、稲刈りの盛期だった。

 稲刈機のない時代はもちろん手刈りで、三反ほどの田を刈るのに家族総出でまる二日はかかった。朝早くから全員で田の半分ほどを刈り、稲が乾いた昼からは、ダテ脚を組んで稲をかけていく。昼の3時ぐらいになると二反ほどの田の稲刈りもおおよそ終わり、私と兄は「雀オドシ」のための赤白のテープや布をわたされて、ダテに張っていく。

 夕方近くになってようやく一段落し、皆が畦(あぜ)に座って休憩していると、あぜ道のむこうから春やんがぶらりぶらりと歩いて来た。両親と一言ふた言話をして、大きな声でガハハと笑うと、私たちの方へ歩いてきた。

 「えらいまたハデにつくったな」と春やんが話しかけてきた。兄と私が、有りったけの赤白のテープと布で作った雀オドシのことだった。なにしろ案山子にまで赤白の旗を持たせたものだから……。

 「こりゃ、源平の戦(いくさ)さながらやで」

 そう言って春やんは、さっきのように大きな声でガハハと笑った。うっすらと茜色をしだした西空の光を背にして、春やんが武者ののように私たちを見下ろしている。

 「千年ほど昔は、このあたりにも、こないしてようさんの赤白の旗が立ってんやろなあ」

 東の通法寺の方を指さして春やんが話し出した。

 

 ――あの通法寺が鎌倉幕府の基礎となった村や。あの村を本拠地にしてたんが源義家(みなもとのよしいえ)。京都の石清水八幡宮で生まれたんで八幡太郎(はちまんたろう)義家とも言うんやが、この義家から数えて四代目が鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝や! 

 八幡太郎というのは、なかなかの強者(つわもの)で、昔、東北で安倍なにがしというオッサンが、税金も払わずに我が物顔で暴れとった。怒った天皇さんが、八幡太郎義家と親父の頼義とに命じて、退治しに行かせた。 

 ところが、この安倍のオッサンはなかなか手ごわい。隣の村にいた清原というニイチャンを味方につけて、九年目にして、ようやく退治できた!

 ところがどっこい、それから二十年後、今度は清原のニイチャンが、一人だけええかっこしだしよったもんやさかいに、親戚が怒って内輪もめが起こった。こんなもん放っとけばよかったんやが、八幡太郎義家、乗りかかった舟。やめとけという天皇さんの言うことを無視して、内輪もめを治めに行った。これがまた三年かかった。これをまとめて「前九年・後三年の役」というんや。12年もかけて勇敢に戦ったもんやさかいに、日本全国では義家の人気はえらいあがった。まあ今で言うジュリーみたいなもんやなあ。『梁塵秘抄(りょうじんひしょ)』という本の中には「八幡太郎は恐ろしや」と書かれてる。

 しかしなあ、おまえらが今日作ったダテ(稲を掛けて乾かす所)と一緒や。よう見てみい。去年は高さがバラバラあったが、今年は良うそろってる。逆に、一本でもはみだしたダテ脚(ダテを作る杭)があると、オトンがカケヤ(木でできた槌)で打ち込むやろ! あれと一緒や! みっともないことさらすなと言う奴がどこでもいる。

 義家は東北の支配を任されると思うてたんやが、その権利が藤原秀衡(ひでひら)というオッサンに行ってしもうた。後に平泉の金色堂を建てた奴や。

 義家が力を見せすぎたために、天皇さんから恐れられたんやろなあ……。

 「出る杭は打たれる」ということや。

 八幡太郎義家は頭にきていたけれど、じっとしんぼうして、通法寺の領地は弟にまかせて、京の都で天皇さんの警護をして一言も文句を言わんかった。「じっとがまんの子」あったんや

 ところがどっこい、またどっこいや。義家が都にいる間に、通法寺では弟の義綱がブイブイとえらそうにしてたんや! 当時の南河内というのは普通やない。と、言うのは、源氏は源氏でもさまざまな源氏があったんや。 奈良時代の嵯峨天皇というのは、子供が五十人いたという。そのうちの一人に天皇を譲って、後の男子には「源」という名字を授けて天皇の家来にしてしまう。これが以後の天皇にも受け継がれ、天皇を引き継がなかった子供はみんな「源氏」の姓をもらう。富田林付近にも、東坂田の「坂戸源氏」、河内長野の「長野源氏(錦織源氏)と別の源氏がいてたんや。

 ええか、源氏という名であれば仲間と思うたらあかんで。「血を血で争う」という言葉があるが、それは、この源氏の争いの冷血さから出た言葉や。喜志の近くでも三つの源氏がいて、八幡太郎義家の「河内源氏」、東坂田の「坂戸源氏」、錦織から南の「長野源氏」、これが互いに利権を争そう、これが源平の戦いの始まりや――。 

 春やんは、北のあぜ道へ歩いて行って、通法寺の方に向かって、「うへへぇーん」と咳払いをし、「おほっほほほ」と息を吐き、通法寺を向いて、小便をこいた。 夕焼け小焼けの夕日を浴びて、春やんの小便が大きな円弧を描いて、虹のように茜色に輝きながら、刈り取られたばかりの田の土の中に吸い込まれていった。

 ズボンで両の手を拭きながら私たちのいる畦に春やんはもどって来ると、ポケットからワンカップを取りだし、シャカンーンときれいな音をたててふたを開けると、ゴクリと一口、それからおもむろに話し出した。

 ――後三年の役が終わってからの四年後の1091年のことや……。

 八幡太郎義家の弟の義綱というのが、領地を広げようと、あろうことか摂関家の荘園に手を出しよったんや。その荘園というのは他でもない、この喜志のことや。「殿下の渡り領」として摂関家と深いつながりのあった「岐志荘」、こりゃなかなか手を出せん。ところが、義綱の家来の清原実清というのが、悪い地頭から守ってやる。ちょっと年貢をくれたら用心棒になってやる、と言って話をまとめて来よった。

 これが義家の耳に入った。河内源氏とはいえ、天皇・上皇・摂関家の家来や。それやのに摂関家の荘園に年貢をよこせとは何たる不届き者……と、えらい怒りよった。実の弟とはいえ、これは許せん。さっそく、義家は、家来の藤原実清というのを喜志に遣わす。苗字の通り、摂関家とは多少のつながりのあるやつや。この実清が、「年貢はいらん、この義家が何が何でも喜志の荘園は守ったるさかいに、弟の義綱とは縁を切って、八幡太郎グループににならへんか」とかけ合わせた。

 喜志荘にしたら、義家の方が筋が通ったるし、年貢を払わんでもええからオイシイ。さっそく八幡太郎グループに入ろうとするのやが、これか朝廷に聞こえる。朝廷は義家が権力を持つのを恐れてる。そこで、弟の義綱の方に肩入れするわけや。

 さすがの八幡太郎もこんどばかりは、頭にきた。「おまえらのためにやったってるのに弟の義綱の肩を持つとは」、というんで、こりゃ義綱と一戦まじえるしかない、戦(いくさ)じゃわい。ホラ貝鳴らして兵を集める。弟の義綱も兄貴をやっつけるええ機会と、兵を集めた。

 しかし、このとき、兄弟は都に住んでた。都に兵を集めて兄弟喧嘩しようというわけや。朝廷はあわてたがな。都で戦されたんでは困る。ましてや兄の義家は全国的人気があるさかいに、えげつない人数集めて、へたしたら都を奪われてしまうかもしれん。 そこで、関白の藤原師実(ふじわらのもろざね)を兄弟げんかの仲裁につかわした。「都に兵を入れること、義家に荘園を寄進することを禁止する」と命令を出しよったんや。

 さすがに義家も手が出せない。平穏に治まって喜志の荘園も安泰なんやが、かわいそうなんは義家やがな。また、「出る杭は打たれる」で、出世はお預けや。逆に、弟の義綱はおとがめなしで、陸奥守・美濃守という地位をもろうて、兄貴の義家と肩を並べるほどになっていきよんねん!

 さあこのあと、喜志の荘園はどないしたと思う……? 表向きは兄弟のどちらにもつかんようにしてるんやが、実は裏では義家グループに入ってたんやがな! これが大正解あったんや――。

  一通り話をすると、春やん、

 「ええか、出る杭は打たれる……のことわざ通り、でしゃばったことせん方がええんやが、周りがおかしかったら、頭出してもかまわんわい。出る杭の方が正しいこともあるんやさかいに」

 わけのわからないことを言って、空のワンカップをポケットに突っ込み、真っ赤な夕焼けの中をふらりふらりと歩いていった。

   

 その夜、恐ろしい夢を見た。前の年に亡くなった曾祖母が夢に出てきたのだ。九十幾つかで亡くなったのだが、亡くなるまでけっこう達者だった。ただ、一日の三分の一は布団の中でむにゃむにゃと口を動かしていることが多かった。

 ある日、曾祖母(以下婆さん)の部屋で漫画を読んでいると、腰を90度に曲げた婆さんが部屋に帰って来て、黙って布団の中に潜り込んだ。知らないふりをして漫画を読み続けていると、しばらくしてごそごそと音がした。なにげなく見てみると、婆さんは枕元の布団の下から小さな木綿の袋を出した。見てはいけないと思いつつ横目で見ていると、婆さんは袋の中から何か取りだし、それを口の中に入れると、布団の下に袋をしまって、いつものとうり口をむにゃむにゃさせながら眠りだした。

 次の日、婆さんが居ない時を見計らって、私は部屋に行き、布団の下から袋を取りだした。角砂糖だった。口をむにゃむにゃしているのは独り言を言っているのだと思っていたが、角砂糖をなめっていたのだ。甘いものに飢えている時代だった。私は角砂糖を一つ失敬し、袋を元にもどした。その日から、ちょいちょいと失敬することが重なった。

 そんなある日、いつものように婆さんがいないすきに部屋に行き、角砂糖を失敬して部屋を出ようと振り向くと、そこに婆さんが立っていた。

 「人の物を黙って取るのは盗人のすることじゃ」

 ほとんど歯が無かったのにえらくはっきりした口調でそう言うと、婆さんは雨戸のつっかえ棒を持って私に向かって来た。私は怖くなり、裸足のまま家の裏に飛び出した。それでも婆さんは追いかけてきた。私は必死にブロックの塀を乗り越え、隣の家に逃げた。

 「このどこしがれめ!」

 鬼婆のような婆さんの声がした。

 親に告げ口されるだろうと思っていたが、婆さんは言わなかったようだ。婆さんと顔を合わせても、いつもと変わらぬ様子だった。年寄りは物忘れがひどいのだと思った。

 十日ほどして、袋はもうどこかに隠しただろうと思って、懲りない私は、婆さんがいないすきに部屋に行き、枕元の布団をめくった。

 袋はなかった。だが、そこに10円玉が一枚置いてあった。その時、私はとてつもなく悪いことをしたのだと思った。

 その日見た夢は、前にも書いたが、「婆さんに追いかけられる夢」の最初だった。夢の中の婆さんは、安達ヶ原の鬼婆のように口が裂け、ざんばらに髪を振り乱して恐ろしい速さで追いかけてきた。家の中、裏の竹藪、石川の河原まで私は逃げるのだが、婆さんはどこまでも追いかけてきた。

 朝、目が覚めた。布団をめくりあげ、パジャマのまま寝ていた。「稲の乾く9時頃に出てこい」と言われていたので、8時頃に起きればいいだろうと思っていたのだが、7時に目が覚めた。

                              ★この項 続きます……


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