河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

俄――遊びをせんとや

2022年09月10日 | 祭と河内にわか

 不動明王の真言(お経)に「のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」というのがある。それをふまえたうえで〈座敷俄〉の一例。

山伏「わしは葛城より熊野へ駆け抜けの山伏。来たるほどに人跡絶えて家もなきが、ぽつんと一つの家。もしもし、あるじ(主人)に申し上げます。葛城より熊野へ通る山伏なれど、今日のひもじさ。先へも後へも参りがたし。空腹な時にもむない物なし。冷めたお粥を一杯だけでも、お頼み申します」
主人「お安いことながら、我さえ食べる物がなく、飢えて死ぬのもいつの日やら。ほかをお頼みなされませ」
山伏「そんならそなたも空腹か」
主人「なにとぞご推量くださりませ」と泣く。「今しばし、思い出したることがある。この向こうの畑に誰かが芋を作ってございます。その芋盗んで食わしゃりませ」
山伏「実にこれは仏のお告げ。それではさっそくその畑へ」
 畑に着き。芋を掘りながら、
  「不動明王の真言にも『いもうまく。さーまんだ。いもうまく。さーまんだ』とあるわい」
 芋を食いながら、ブッと屁をこく。
  「不動明王の示された通り、『いもうまく。さーまんだ。いもうまく。さーまんだ』じゃ」
 言いながら、また屁をこく。屁のブッという音に合わせて太鼓がドン。チャーンと鉦の音。
  「ブッ」ドン・チャン。
  「ブッ」ドン・チャン。
 そこへ「芋盗人じゃ!」と騒ぎ立てて大勢が出てくる。山伏を捕まえ
大勢「芋盗人を捕らえたぞ!」
山伏「思いもよらぬこの有様。はやまって後悔すな」
親分「言い訳ぬかすな。打ち取れ!」
 山伏を取り囲み、
大勢「山伏、芋食うな!(動くな)」

 宝暦(1751~)の頃誕生した〈座敷俄〉は、オチのおかしみより、オチにいたるまでの筋立て、お囃子のにぎやかさが中心になっている。
 茶屋の座敷でするため「人に見せる」ことより、「自分たちで楽しむ」ことが中心で、より〈遊戯性〉が強い。

 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ
(遊びをしようと生まれてきたのか、戯れしようと生まれてきたのか、遊ぶ子どもの声を聞くと、こんなわが身でさえも揺れ動きだす〉
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』 平安後期の今様(歌謡曲)の集成。

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座敷俄

2022年09月09日 | 祭と河内にわか

 浪花の夏の風物詩となった俄は、町の辻々で演じる〈流し俄〉だった。

〇黒装束の忍者姿の男
忍者「源氏の財宝、この白旗。手に入れたからには大願成就。ああ、嬉しや」
 と白布を押しいただいて行く。
 すると後から寝まき姿の男が出てきて、
 「曲者(くせもの)待て! わしのふんどしをどこへ持っていく」

 このような〈流し俄〉が、嶋内や道頓堀、曾根崎や堀江界隈の花街に広がっていった。それを商家の旦那衆が座敷へ上げて俄をさせる。
 「ほんなら、わしも俄とやらをやつてみよ」と、俄はやがて旦那衆の趣味・遊びとなり、太鼓持ちや仲居を巻きこんだ〈座敷俄〉となる。

〇揚屋(遊女屋)の掛け取り(借金取り)が出て来る。反対側から数人の家来を連れた侍が出て来る。
掛取「コリャ、よい所で出会うた。ここで会うたが百年目、サア、五十両の揚代を返せ」
 「イヤ、ここは途中ゆえ屋敷へ来い」
掛取「屋敷へ行っても、留守じゃ、留守じゃと、いつ聞いても同じ断り。金がないのならせめてもの腹いせ。郭へ行って桶ぶせにする(風呂桶をかぶせて路上にさらす)。サァ、ござれ!」
 「武士に向かって狼藉いたすか。皆の者、こやつを取り囲め!」
家来達「ハハァー」
 と掛取りを囲み
家来達「やらぬぞ(逃がさないぞ=お金をあげないぞ)」
掛取「また、断りか!」

 これには三味線や太鼓の効果音が入る。筋書も複雑になり芝居ぽくなってくる。
 もちろん、〈流し俄〉も行われている。

 大阪俄発祥からのここまでの流れをまとめておく。
 ※数字は改元した年(元年)
享保末1730頃~ 〉思い出した俄じゃ俄じゃ〈流し俄〉・河内俄
元文 1736~ 大名と太郎冠者による〈大名俄〉・京都に伝わる
寛保 1741~ まかり出でたるそれがしはの〈狂言俄
延享 1744~ 〈コリャなんじゃ俄
寛延 1748~
宝暦 1751~ 花街での座興の〈座敷俄

※上図は今治市立中央図書館の「後三年役絵巻 2」より

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畑――花も実もある

2022年09月08日 | 菜園日誌

難儀な台風11号のために雨続き。
ようやく昨日は降雨なし。今日は午後から雨模様なので、朝の6時に畑へ。土は多少湿っていたが、今日やるしかないと意を決して、耕うんと畝立て。

久々の鍬使い。土が重い。一筋立てては休憩しながら2時間ほどで完了。黒のビニールでマルチングをして完成。
これで来週にはニンニクを植えることが出来る。
幸いに曇り空で汗をかくほどではない。よっしゃ、やったろ! 畑の中央に設けた通路の草抜き。

売り物用の落花生。畝間(うねま)どころか通路にもはびこっていて、ここは草抜き不可能。カラス除けの糸の張り直しをとて、草抜き再開。

ナスの畝までたどり着く。8月の上旬に剪定して秋ナス用にしたのだが、まだ大きな実がついている。
まだまだ夏か・・・と思いつつ草抜き。

ようやく終点のニラの畝に到着。いつの間にやら花が満開。
近寄ってみると、予想に反し、ニラらしくない、ほんのりと甘い香り。
例年は刈り取って花をつけさせないのだが、香りに癒されたので今年はそのままにしておく。
ニラの花のそばでしばしの休憩。スマホを見ると11時。台風12号発生。
手加減してや!

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俄――大阪 vs 東京

2022年09月07日 | 祭と河内にわか

 ウィキペディアで「俄」を調べると、次のような説明がある(以下抜粋)。
 「俄とは、またの名を茶番(ちゃばん)。俄狂言(にわかきょうげん)の略。遊廓などで、多くは職業的芸人でない素人によって演じられた」

 全国に広まった俄だが、「茶番・俄狂言」などと呼んでいるところはない。みな「にわか」だ。
 それに、俄は神に奉るという〈神事性〉が根本にあるので遊郭のものではない。
 あきらかに東京びいきの人によって書かれた茶番(下手な芝居・行ない)である。
 この説明の大元となっているのは、江戸後期に書かれた『新吉原略説』という書物で、俄の発祥は享保19年(1735)の江戸の吉原であるとしている。
 そして、この説をもとにまとめられた『演劇百科大事典 全6巻』(1961年 早稲田大学演劇博物館)によって権威づけられ、俄の定義は一人歩きしていく。
 天下の『広辞苑』でさえ、この定義に従っている。

 しかし、吉原俄について書かれた他の書物には、明和を発祥とする書が多い。そこで最近では、吉原俄は明和4年(1768)前後に始まったとみるべきだとしている。
 してみるに、江戸吉原遊郭で「茶番狂言」と呼ばれる素人の寸劇が流行る。そこへ大阪から俄が輸入されてきた。
 「俄だって? 江戸っ子が、そんな野暮な大阪野郎の言葉はつかっちゃあいられねえや。茶番狂言と同様に、俄狂言てえことにしちまおう」
 そこへ、大阪の庶民の間で俄が大流行していることを聞く。
 「なんてこった! 江戸っ子が大阪野郎なんか負けちゃあいられねえや! いっそのこと、俄の発祥を江戸の吉原ってえことにしちまおう。吉原俄てえのはどうだい」
 かくして、全国に広まった「俄」は、江戸の「俄狂言」を略したものとなってしまう。
 江戸っ子にはかないまへんわ!

 享保の末頃(1730年頃)、大阪で俄が発祥し、大阪から京都島原へ輸入され、島原から江戸吉原へ輸入されたのである。

 

※上の二枚は『東京名所』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

※下の図は『大阪名所・四天王寺西門』(大阪市立図書館アーカイブより)

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俄のチカラ

2022年09月06日 | 祭と河内にわか

 建武3年(1336)の湊川の戦いにおいて、南朝の名将楠正成を敗死させたという伝説が残る大森彦七という侍がいる。功績により讃岐国を与えられる。
 この彦七が、伊予の国のある寺へ向かう途中、矢取川で楠正成の怨霊の「鬼女」に出くわしたという伝説がある(太平記)。 
 それをあつかった俄である。


〇男が、大きな布を頭にかぶった女を背負って出てくる。
「さてもさても、えらい重たい。重たいぞ」
「そっちは深い、こっちは浅いぞえ」
男「ほに、そなたは賢い。えらいなあ。えらいついでに思い出したが、大森彦七が鬼女を背負ったという話がある。どうもこのふわふわとした尻が怪しい。どれ、一度、顔を見てやろう!」
 そう言って女を下ろし、かぶっていた布を取るとタコの頭。
男「さては、大タコに教えられて・・・浅瀬じゃなあ!」
 ※諺「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」

 俄好きたちが多く集まるのは、遊郭があった新町近くの島之内・道頓堀、そして堀江界隈だったが、夏祭の頃は、どこの町どこの家も夜は御神灯をかかげて、夕涼みの床を出した。
 どこもかしこもが俄の場となった。


〇「忌中」の張り紙がある家の夕涼みの床に、「俄じゃ」と書かれた提灯がつられていて、
 そのの下に床几(しょうぎ=長椅子)が置かれ、
 その上に「櫃飯(ひつめし=ご飯が入ったおひつ)とイカキ(=ざる)と豆腐(とうふ)が置かれている。
 これが俄になっている。

 しょうぎ・ひつめし・いかき・とうふ
 しょうじゃひつめつえしゃじょうり
 生者必滅会者定離(命ある者はいつか必ず死に、出会った者はいずれ別れるのがこの世の定め)

 悪い疫病の流行によるつらい別れを、俄という笑いで、「悟り」に変える。
 俄の本質には「笑い=滑稽性」がある。

※上図は『浪花百景』(大阪市立図書館アーカイブより)

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