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古今東西のアートのお話をしよう

エゴン・シーレ展



エゴン・シーレ(1890〜1918)



初日、若い女性が比較的
多いかな
(佐伯祐三展はすくなかった)

男性は、シーレを気取る
若きナルシスト?! 

来場者はそこそこ…

エゴン・シーレ(1890〜1918)


16歳のエゴン・シーレ

オーストリア・ハンガリー帝国ウィーン近郊の中産階級の家庭に生まれる
父親は帝国鉄道の鉄道員で後に駅長にもなっている
15歳の時、父親が梅毒で死亡
16歳でクリムトと同じウィーン工芸学校に入学
この頃4歳下の妹、ゲルトルーデ(ゲルティ)をモデルに裸体デッサンを行い、肉体関係もあったらしい
ウィーン美術アカデミーに進学したが、19歳で旧弊なアカデミーに失望し退学、グスタフ・クリム(1862〜1918)に師事する
ウィーン分離派には参加しなかったが、クリムトのウィーン工房に職を得る

20歳頃、少女の裸体画、自画像を多数制作する
21歳、妹ゲルティとの関係がギクシャクしだした頃、クリムトから紹介された17歳のモデル、ヴァリー・ノイツィルと同棲
22歳の時に14歳の少女を誘拐したと訴えられるが、誘拐は冤罪も家宅捜索で少女ヌードが摘発され1ヶ月の禁錮となる
幼児性愛者と画壇から非難され苦境にたつが、恋人ヴァリーの支えで制作を続ける
25歳の時、アトリエの向かいに住む鉄道関係で中産階級の姉妹の妹ハルムス・エディットと結婚を決め、ヴァリーと別れる
第一次世界大戦に召集される
姉のアデーレともエディットが妊娠中関係した
28歳の時、妊娠していたエディットがスペイン風邪に罹り死亡、3日後にはエゴン・シーレも同じ病で死亡した

イケメンで女性にモテまくったようですが、なんとも酷いゲスぶりです

全115点中エゴン・シーレの作品は50点
19世紀末から20世紀初頭のウィーン分離派まで

(第9章 風景画を除き撮影不可のためネット画像を借用)

エゴン・シーレ 装飾的な背景の前に置かれた様式化された花 1908年

銀と金の顔料で琳派の箔を模している 葉が螺旋を描く

エゴン・シーレ 自分を見つめる人Ⅱ (死と男) 1911年

エゴン・シーレ ほおずきの実のある自画像 1912年

服は指で絵の具を塗っている
表現主義的自画像の代表作

エゴン・シーレ 悲しみの女 
1912年

いわば糟糠の妻であったヴァリー・ノイシィルがモデルで後ろの男性はシーレ
「少女誘拐事件」の年に描かれた
どうしようもないゲス男に捧げる“悲しみの女”

こちらも同年の作品
子供の驚いたような表情、拒絶する手が語るものは…

エゴン・シーレ 縞模様のドレスを着て座るエディト・シーレ 
1915年


社会的信用がある中産階級で自分と同じ鉄道関係の家に生まれ妻となったエディット



第9章 エゴン・シーレ 風景画
ここのみ撮影OKでした

エゴン・シーレ 吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)

第7章 アイディンティティーの探求

エゴン・シーレ 裸体自画像
1912年

エゴン・シーレ 背を向けて立つ裸体の男 1910年

第13章 裸体

エゴン・シーレ 赤い靴下留をして座る裸婦、後ろ姿 1914年

エゴン・シーレ 頭を下げてひざまずく女 1915年


エゴン・シーレ 肩掛けを羽織る裸婦、後ろ菅盾(《回心Ⅱ》の断片)
1913年

裸体ではこの絵に惹かれた
脚の線がベルナール・ビュフェ(1928〜1999)の風景画のよう

第14章 新たな表現、早すぎる死

第一次世界対戦から帰還したシーレはウィーン分離派展ではメイン展示を飾るまでに成功していた

エゴン・シーレ カール・グリュンヴァルトの肖像 1917 年

この頃から表現主義的荒々しさから
具象的要素が増える

エゴン・シーレ 横たわる女 1917年

扇情的ポーズの割に変態性はむしろ薄い、自然な肉体表現

エゴン・シーレが「私に才能はありますか?」とクリムトに問うと、
クリムトは、
「いや… ありすぎる」と答えた
私生活がこれ程、
ゲスな男はなかなかいない、
神は彼に美貌と才能を授けた、
短い人生と引き換えに…

★★★★★

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