練馬区立美術館の後は、
中村橋から一駅の練馬で降りる
目的は、
想い出の店「チャイカ」と云う
洋風居酒屋があった場所にある
蕎麦屋「176(いちななろく)」
ネットによると、
経営者は同じらしい…
駅から豊島園に曲がる踏切(今は高架)を目ざす

なんと!!
定休日…

以下、ネットから写真借用

次は絶対行くぞ!!と心に決め、ドトールのミラノサンドで空腹をまぎらわした…
気を取り直して、アメーバブログで教えていただいた目白(下落合)の
中村彝(つね)アトリエ記念館へ
目白駅から学習院の反対左に歩いて約10分 閑静な住宅街に発見!!
アレ?!
アニメハウス・・・

これだ
↓

新宿区の企画 デジタルスタンプラリーらしい… 10月30日まで

中村彝(明治20年(1887)〜大正13年(1924))
旧水戸藩士の三男として水戸市に生まれる
1904年 東京陸軍中央幼年学校に入学するも結核を発病し中退
1905年 千葉県館山に転地療養 白馬会洋画研究所に入り絵画を習う
〜文展に入選する
1911年 新宿中村屋の相馬黒光・愛蔵夫婦の厚意で中村屋裏の画室に住む
1913年 相馬家の長女俊子(当時女子聖学院の学生)をモデルにした裸婦像を制作
1914年 「小女」(三等賞)「少女裸婦像」を文展に出品

写真をみると確かに小柄です

ゴヤの「裸のマハ」「着衣のマハ」の着想なんでしょうか…
文展への出品で世間に知られることとなりスキャンダルとなる
中村彝は、俊子に求婚するが、相馬黒光・愛蔵は結核を患っている中村彝との結婚は許さなかった…
中村彝は、相馬家を離れ、1916年下落合にアトリ

アトリエ内部
椅子やテーブルは当時のもの

中村彝 エロシェンコ氏の像(重要文化財) 1920年
盲目のロシア青年を街で見つけモデルを依頼、彼は新宿中村屋に寄寓していた、エスペランティストで詩人だった
病身の中村彝はアトリエで、友人の画家とそれぞれエロシェンコの肖像画を描いた

1924年 結核のため37歳で死去
この時代、芸術家は夭逝した…
菱田春草(1874〜1911)
中村彝(1887〜1924)
村山槐多(1896〜1919)
佐伯祐三(1898〜1928)
関根正二(1899〜1919)
そして
荻原守衛(1879〜1910)
がいる
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