古今東西のアートのお話をしよう

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風よあらしよ その3

2022-09-16 06:55:08 | 日記風&ささやかな思索・批評カテゴリー

1916年に起こった日陰茶屋事件。
世論は、ダブル不倫の大杉と野枝には批判的で、大杉を金銭的に支援していた神近市子に同情的であった。

大杉と野枝は、社会主義者の仲間内でも孤立した。

1917年 大杉と野枝に長女「魔子」が誕生する。世間から悪魔と揶揄された野枝は娘に「魔子」と名付けた。
その後も四人の子供を授かった。

伊藤野枝と長女魔子

日清戦争(1894) 日露戦争(1904)の勝利によって、高揚する国論のなか、1910年(明治43年)5月に、幸徳秋水ら社会主義者が逮捕され、後に処刑された「大逆事件」、8月には「朝鮮併合」が起こる。

大逆事件を機に社会主義運動は、さらに弾圧され一時退潮したが、1917年のロシア革命により再び息を吹返していた。

孤立していた大杉栄もアナーキストの仲間と再び共闘していく。

文筆活動も盛んで、社会主義思想の他「ファーブル昆虫記」の翻訳本も刊行している。

大杉栄は、1923年1月 ベルリンで開催される国際アナキスト大会に参加するためフランスへ出航する。

アナキスト大会の日程が定まらないうちに、パリ近郊でフランス警察に逮捕され収監される。
大杉栄と分かり日本に強制送還され、同年7月に日本に戻った。


神戸に出迎えた、伊藤野枝と魔子を抱く大杉栄

欧州出航とパリでの逮捕、入獄を書いた「日本脱出記・獄中記」

大杉の死後、遺稿として刊行された

伊藤野枝は、1921年の女性社会主義団体「赤瀾会」に顧問格で参加した。

「赤瀾会」は、1919年に平塚らいてう、市川房枝などにより発足した「新婦人協会」を生ぬるい、ブルジョア的と批判し、因縁からか対抗意識をむき出しにしている。


1923年9月1日 11時58分
関東大震災 発生
死者行方不明者 推定10万5千人におよぶマグニチュード7.9の
巨大地震だった


政府は9月2日 戒厳令を発動

内務省は、各地の警察に「混乱に乗じて朝鮮人や共産主義者が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意するよう」と下達した。

9月16日 大杉は野枝を連れて、被害が甚大だった横浜鶴見に住んでいる野枝の前夫、辻潤を見舞いにいくが
辻は不在だった。
近所に住んでいた大杉の実弟大杉勇を訪ねた。
偶然、大杉の末妹あやめとその息子の橘宗一(6歳)が滞在していて、宗一が「東京の焼跡を見に行きたい」というので、大杉、野枝、宗一の3人で東京に戻ることとなった。

自宅に帰ると、張り込んでいた陸軍憲兵甘粕正彦大尉と特高の森慶次郎曹長他2名により、3人は憲兵隊司令部に連行された。

甘粕正彦憲兵大尉

その日のうちに3人は扼殺(やくさつ)され、遺体は敷地内の井戸に遺棄された。 

大杉と野枝、甥の橘宗一が行方不明になったことを知った同士が不審に思い、橘宗一がアメリカ生まれで米国籍があることから、アメリカ大使館に届け出、大使館から警察に照会した。
新聞も大杉らの連行に気付き記事が出た。

警察は憲兵隊司令部に連行され扼殺された事実を政府に報告。
国際問題と新聞報道から、隠蔽は不可能と結論した政府は、殺害の事実と甘粕大尉、森曹長ほか3名の逮捕を公表した。

3人は衣服を剥ぎ取られ簀巻きにされ井戸に投げ込まれ、井戸は馬糞と煉瓦で塞がれていた。


殺害された「外ニ名」が、日陰茶屋事件の伊藤野枝と7歳(6歳?)の甥橘宗一と分かり、世間は騒然とした

甘粕正彦は軍法会議で、「震災に乗じて大杉栄と伊藤野枝が暴動を扇動すると思い、あくまで個人の考えで連行し殺害した」
「自分が大杉と野枝を柔道の裸絞をかけ森曹長が足を押さえ、15分位で死んだ。念の為二人を縄で絞めた。橘宗一は大杉と野枝の子供と思い部下に扼殺を指示した」と供述している。

戦後見つかった3人の「死因鑑定書」には、大杉栄、伊藤野枝に対する激しい拷問の跡(肋骨がバラバラなど)が記載されていた。

甘粕大尉は懲役10年、森曹長は懲役3年、関与した3名の部下は無罪となる。

甘粕大尉は3年弱、千葉刑務所に服役したが、恩赦による減刑で、1926年(大正15年)10月に仮出所で釈放された。

そして、陸軍からのご褒美か、夫婦連れでフランスに官費留学した。
これをみても、大杉殺害が甘粕の単独犯行でないことが推察される。

帰国後、満州に渡って満州事変に関わることになる。

伊藤野枝と大杉栄の伝記小説「美は乱調にあり」で、瀬戸内寂聴が伊藤野枝の二つ下の実妹 武部ツタを訪ねて取材している場面がある。

野枝とツタは年も近いこともあり、気兼ねなくよく話したそうで、こんな会話があった。

「よくもまあ女が何人もいる男といっしょになったもんだ」
とツタが言うと、
女なんて何人いたって平気よ、今にきっとあたしが独占してみせるんだから」と野枝が返した。

「どうせあたしらは畳の上でまともな死に方なんてできやしない。
きっと思いがけない殺され方をするんだろう。
その時になっても、決してあわてたり、悲しんだりしてくれないように。
あたしらは好きなことを信じてやって死んでいったんだから、本人たちは幸福だったと
思ってくれ」
と伊藤野枝は言った。


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