(前半の1の細部に若干の誤りがありました。訂正しました。ご了承ください。)
4:産業開発・高度成長か、自然保護か?
新浜を守る会の運動は、日本経済が高度成長のど真ん中の時代だった。国策として全国総合開発計画が1962年から始まり、1969年に第2次全国総合開発計画が始まる中間点だった。石油と鉄鋼の新たな大規模開発と、開発と未開発の狭間のようなところにも開発の波が押し寄せていたのだ。重工業の力の前に、日本の農林漁業は追いやられていた。今思えば、そういうことだったのだ。
1967年秋、新浜ではマスコミは「鳥か、人か」、地元の農漁民は「野鳥を殺せ」とまで声を上げていた。すでに彼らは農漁業での生活設計に展望を失い、農地や漁業権を売り飛ばし、金に換えることがすべてになっていたようだ。もっと私たちが早い段階で気がついていれば、別の道があったかもしれない。本来自然を守りながら歩むべき第一次産業の人々と私たち自然保護派は手を結べるはずだったのに、衝突の枠組みが敷かれていたのだ。既に経済成長ー開発路線の大進撃ラッパ!がならされていた。
こうして私たちの新浜を守る会の運動は、保護区(80ha)の保護にとどまり、水辺環境の920haは跡形もなく押しつぶされていったのだ。湾岸道路が走り、東西線が走り、倉庫やディズニーランドができ、周辺は新興住宅地になっていった。完膚なきまでの敗北だった。しかし日本では初めての保護区であり、サンクチュアリなるものが誕生し、観察小屋などが整備されていった(管轄ー市川市)。
因みに73年の石油危機から始まる経済の後退局面で、新全国総合開発計画は全面的に破綻していったのだ。その荒野に原発関連の大規模開発の強風が吹いたのだった。これが下北半島核開発計画だ。
5:自然観察会と山歩きの時代に垣間見た政治(68年から70年)
当時の私たちは若かった。エネルギーが溢れていた。日本野鳥の会東京支部が動かないならば、自分たちで動き出した。新浜を守る会についてはふれたが、ほぼ同時に「若さの探鳥会」を何度か合宿のような企画を持った。ここへの集まりが自然観察会(1968年結成)の下地を作っていく。自然観察会という言葉はまだ普通名詞であり、固有名詞として使うことは問題ないように思えた。私もこの会の創設に参画し、神奈川県厚木市、東京都調布市、同杉並区西荻などで地域活動を開始。大人に自然保護とか、共存といったところで、経済成長幻想しか追えないのだから、次世代の大人に目を向けたのだ。
私はこの前後で忘れがい経験を重ねている。①68年8月21日午後。新潟県妙高山麓での若さの探鳥会と、その後2日間、志賀高原で遊んで長野駅近くの喫茶店でひと休みしていたら、臨時ニュースが鳴り響いた。「ソ連軍プラハに侵攻」だった。当時の私はノンポリ=非政治的だったが、これには驚き、怒りを噛みしめた。社会主義ってこういうことをするのだと分かってしまったのだ。軍隊って恐ろしいとも思ったのだ。
②70年7月奥日光国立公園でレインジャーのアルバイト。まだ環境庁ができる前で国立公園を厚生省が所管していた。横文字で書けばかっこいいレインジャーだが、山のゴミ掃除人。自然観察の手ほどきどころじゃなかった。その最悪の下手人が自衛隊と林間学校。このふたつが堂々たる環境破壊の大御所だったのだ。自衛隊は夜間訓練らしく、どっさり部隊のゴミの山を放置していた。軍隊とはせこいものだと、承知した。
6:理学部入試を諦め、経済学部に(69年から70年)
私の高校時代は、「鳥博士」とも言われていた。まだ鳥で飯を食おうと思えば、鳥類研究者になる道しかなかった。鳥類学専攻だ。そのためには理学部を受けて、大学院。しかし私は断固たる理系ダメダメ人間だ。高校では理系数学をとっていたが、不戦敗を決めた。無理は無理だ。こういうところでは諦めが早いのだ。
こうなれば、我が道は簡単に決まる。経済学部で工業開発批判。しかしまだそんな授業はなかった。心に隙間風が吹いているとき、70年反安保闘争の季節を迎えた。中途半端な闘いだったが、ベトナムに平和を! 市民連合の隊列に参加した。共産党でもなく、新左翼でもなく、全共闘でもなかった。結果的にこれで正解だった。政治がよく見えていない裡からガチガチの党派に走っていたら、自分の頭・身体も壊れていただろう。
大学での政治闘争は中途半端だったが、私は60年代から引きずっていた開発・公害問題に取り組んでいく。チッソ株への水俣病自主交渉派の本社前での座り込み。しかし様々な問題群を整理できず、宇井純(当時東大工学部助手)さんの東大自主講座に参加したりしていた。
しかしこうした問題群とは相対別に、私は学生運動に深入りしていく。詳細は省くが、自然保護・反開発・反公害の私の燃えさしは消えなかったのだ。大学1年の「経済学」では、石牟礼道子の「苦海浄土 わが水俣病」を評して「A」をいただいたり、4年次の卒論で「地域開発批判」を書いた。
また、自然への憧憬は登山や写真の中で細々と繋げていた。
7:沖縄との出会いから今
70年代半ばから80年代の私は学生運動から労働運動へと歩いたが、本題の主題ではない。唯、細々と山で鳥を見てきた。歩きながら、鳥を見たりしていると、登山の辛さも少々抜ける。自然との付き合いがあったから、様々な意味で励まされてきたことは間違いない。
1989年5月、私は初めて沖縄に来た。このときのテーマは「沖縄から安保が見える」であり、石垣島の白保の珊瑚礁の海を守る人人との交流であった。私は暑い南の海に魅了され、ベニアジサシやエリグロアジサシを見て、珊瑚礁の海を実感したものだ。初めての体験はやはり貴重だった。
そして私は2004年7月に初めて辺野古テント村にやって来た(辺野古テント村の座り込みは2004年4月19日から始まっていた)。今は亡きヘリ基地反対協議会の大西照夫さんが東京に同年6月来られて、いよいよボーリング調査が始まると東京に応援を求められたのだ。
初めての辺野古で見たものは、キラッ、キラッと輝く海面(同年7月)と、海人(うみんちゅ)がODB(沖縄防衛局)の旗をなびかせて、警戒船や作業船として基地建設に協力している姿だった(9月以降)。この姿を私は忘れない。1967年、68年に東京湾で見た姿がダブってきたのだ。この開発を促進する構造は時間と空間を超えるものであり、恐ろしい。
私が沖縄に行き始めたのは、ストレートに基地・安保問題からだ。だから沖縄の自然を考えることは遅れた。沖縄島に行けば、まずそこにみえるのは基地・軍隊だからだ。2000年1月、沖縄の探鳥地を巡る旅を敢行した。バード・ウォチングの友人Yとの二人旅。この時は新鮮だった。鳥を見る気になれば、こんな自然の世界が広がっているのだ。那覇の漫湖にセイタカシギが100羽単位でいたのだ。琉球諸島の自然界の奥域は深いようだった。
私は辺野古・大浦湾で、また、2011年からの与那国島・石垣島・宮古島に通う中で、基地問題の裏側に琉球諸島の自然を垣間見てきた。それぞれの島での基地建設の中で、私の思いは複雑である。
8:ひとまずのまとめ
①バックボーンとしての野鳥とは
私が生きてきた、生きている過程の中で、野鳥との関わりは、他にかけがえのないものだ。その瞬間、自分も生きていると思うから。確かにごちゃごちゃした人生の中で、研究者としてこの道を貫くことはできなかった。しかし自分の後ろ盾に据えてきたことは、確かなことだ。多くの人と野鳥を話題にできる沖縄の環境は貴重である。いつまでもそうできる努力を続けたい。
②軍事と野鳥の対極の中で
この2つは一見関係ないのだろうか? もしも一発の爆弾が破裂したら、何人殺されるかだが、先日観察した大浦湾二見での観察(2020年5月1日)では、10cm四方にオキナワハクセンシオマネキは1個体いた(雄のみの概数)。ここに半径15m爆裂したらその面積は706.5平方メートル。10cm四方に1個体だとすると1m四方に100個体。この面積には計70650個体が一発の爆弾で殺される。実際の自然環境の中には様々な種が生きています。合計どれだけの種が個体が殺されるのか。こうしたことがおきれば、コサギやチュウサギも直接殺されなかったとしても、生きていく餌が死滅すれば、やはりそこに生きていけなくなる。
私がベトナム戦争時代に驚愕させられたのは、米軍のジェノサイドです。ナパーム弾で焼き尽くし、化学兵器の大量散布で森を殺し、水を汚染させ、稲を枯れ死させていた。こんなありかたが文明ならば、そんなものはいらない。ここまでの殺戮の合理化・正当化は何故起きるのだろうか。
無論私が論難するのは体制の差に係わりません。社会(〇〇)主義ならばいいとか、私は断じて別扱いを許しません。権力というものの傲慢さを許さない。
今、そこに野鳥が生きているとすれば、生きものが生存できる環境があるということです。様々な生命が食い合うことを通して、ひとつの生態系が維持されているのです。私たちは常に生命の生存が脅かされていないかを注視していくことが重要です。
このように軍事力は極端な破壊力をもっています。そうでなくても、平時の文明力も、合理主義が跋扈しており、疑わしいものが多数あります。ご都合の良いことだけが「成果」として謳われており、その裏面に塗り込められているかもしれない。「便利さ」を疑うことは生きものの使命です。
③新しい発見と創造のために
そして野鳥への、野鳥を通した自然環境や人間関係から、新たな発見や創造ができるものです。科学も芸術も私たち人間のあたらな発見と創造力が求められているのです。
以上はまだ試論です。今後思考を深めて参ります。