山クジラの田舎暮らし

岩手県北の田舎に生息する「山クジラ」です。定年後の田舎暮らしや趣味の山行きのことなど、発信していきます。

『零戦』=堀越二郎著

2013-08-26 07:28:27 | 読書

 宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』に関連して、堀辰雄の『風立ちぬ』とあわせて、堀越二郎の『零戦』が売り出されていたので、購入しておいた。本書は1970年3月に光文社のカッパ・ブックスから刊行され、1984年12月に講談社文庫で刊行された。今回のアニメ『風立ちぬ』の制作にあわせて、角川文庫より再刊。それにあわせた解説もついている。

 堀越二郎は1903年、群馬県生まれで東京帝国大学航空学科を卒業し、三菱内燃機(現三菱重工業)に入社。戦時中は96式艦上戦闘機、零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と、世界の航空史に残る名機の設計を立がけた。戦後は三菱重工業参事、新三菱重工業参事経て退職。東京大学、防衛大学、日本大学などで教鞭をとった。1982年死去。

 私も少年の頃は「兵器おたく」で、零戦や軍艦の絵を描いて自己満足しているような子供だったので、零戦の設計者である堀越二郎という人の名前は知っていた。しかし、その零戦がどのような苦労の末生み出されたのかは知る由もなかった。今回アニメ『風立ちぬ』の主人公のモデルになった堀越二郎に関連して、角川文庫よより『零戦』が再刊されたので読んでみた。明治維新、文明開化以来、海外の技術の導入と模倣によって発展してきた日本が、中国への侵略を広げていく中で、航続距離がながく戦闘能力の高い戦闘機を持つ必要に迫られ、堀越二郎をチーフとする設計チームが血のにじむような苦労の末作り出したのが、零式艦上戦闘機である。しかし、日本がアメリカなどとはじめた太平洋戦争で、零戦は当初大きな戦果をあげながら、アメリカ軍の物量とF6Fなどの新兵器の投入のもとで次第に劣勢となる。そして零戦の最後の舞台は神風特別攻撃隊という体当たり作戦になる。このことについて堀越二郎は「あとがき」で「おわりに、飛行機とともに歩んだ私の生涯において、最大の傷心事は神風特攻隊のことであった」と述べている。すぐれた技術も時の政治の中では、とんでもない結果をもたらす。私の友人にも土木建設で生きてきた人物がいるが、原発の建設にもかかわったことがあって、そのことを誇りにしている気配であった。技術の面からだけでなく、社会のあり方の面に明確な意識をもたないと、この国の行く道を再び誤らせることになるのではないか、そんな気がした。


『風立ちぬ』=堀辰雄著

2013-08-23 07:29:48 | 読書

 宮崎駿監督の『風立ちぬ』を鑑賞して、この作品のもとになった堀辰雄の『風立ちぬ』という同名の小説があると知った。ミステリーや時代小説を主に読んでいる山クジラは堀辰雄という名前ぐらいは聞いたことがあっても、その作品について触れる機会はなかった。

 そこでまず堀辰雄のこと。1904年東京生まれ。東京帝国大学国文科卒。一高時代、芥川龍之介、室生犀星に師事し、大学在学中は中野重治らと活動。詩、エッセイ、ランボーの翻訳等を発表した。1930年に処女短編集『不器用な天使』を刊行、その後本格的に小説を発表し始める。プルーストやリルケの影響を受け、独特の抒情的な作風を確立した。

 今回読んだのは、角川文庫版でアニメ『風立ちぬ』が評判になるとさっそく文庫版が書店に並んだので購入しておいた。本書には『美しい村』『麦藁帽子』『旅の絵』『鳥料理』などといっしょに『風立ちぬ』がおさめられている。『風立ちぬ』を読みながら、堀越二郎の出会う女性が肺結核でサナトリウムで治療する場面が出てくるが、堀の『風立ちぬ』は全部がそのサナトリウムでの物語である。そして、「風立ちぬ、いざ生きめやも。」という、映画の中にも登場した言葉が出てくる。結核という不治の病、戦争の悲惨、こうした困難な時代にあって、生きぬこうという呼びかけが映画『風立ちぬ』で貫かれているだと思う。

 それにつけても、私には堀辰雄の『風立ちぬ』は抒情的に過ぎて、いささか疲れる読書だった。そういう人間になってしまったのかもしれないと若干反省。


カナダから孫の便り

2013-08-23 07:29:48 | 日記

 8月に荷物を送った返礼も兼ねて、カナダから孫の便りが届いた。10か月検診を受けてきたとかで体重10㌔、身長約80㌢に成長しているとのこと。誕生(10月)までには歩くのではないかとも書いてある。父はアメリカに出張中で、母と2人でお留守番とのことだ。元気で成長してくれるのが何より。

 安倍内閣は、法制局長官を現行憲法下で集団自衛権行使は可能とする人物に差し替えた。前法制局長官は最高裁判事就任記者会見で、「集団自衛権行使には憲法改正が必要」と述べたが、自民党と政府はあれこれと批判している。今度の法制局長官の差し替えは、憲法の解釈を変えようとする「クーデター」のようなものである。参院選では何も語らず、ひたすら憲法改悪をめざす安倍内閣の暴走を止めなければならない。