浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

終戦記念日

2012-08-15 08:15:31 | 資料

 皆さんA級戦犯というと、B級C級戦犯より重大な罪であると解釈されているようですが、それは大きな間違いなのです。

そもそも「ABC」と表記されている戦犯とは、罪の大小を表す垂直的な意味でなく、単なる訴因の項目を示す、水平的な表記「イロハ」と解釈するのが正確なのです。

 それは、東京裁判でA項目(級)「平和に対する罪」戦犯として起訴された28名の中で、処刑された7名以外は有期刑(2名獄中死・1名病気不起訴)でしたが、BC項目(級)戦犯で起訴された中からも1059名が処刑され、「ABC」項目(級)戦犯をすべて合わせると1068名が処刑されました。仮にABCの順番で罪が重いのであれば、Aで有期刑になりBCで死刑になっていることは矛盾なのです。

しかもA項目(級)とC項目(級)は国際法には無かったが、この東京裁判において急遽作られた罪状です。しかも戦争全体でなく敗戦国日本の為にだけ作られました。

例えば現在、たばこを吸っていても罪になりません。しかし、急にたばこを吸う事が罪になり裁判にかけられ、「お前は昔たばこを吸っただろう」等という言いがかりを付け、無理やり罪を作った裁判が、東京裁判なのです。

その時に違法でないものを、後で法律を変更したと言って、過去を裁く等という出鱈目な行為が許されていいわけはありません。

パール判事がA級戦犯に無罪を言い渡しましたが、当然の事なのです。それであるのに、日本人は裁かれ、処刑されました。東京裁判は、極東軍事裁判と銘打つからには、国際法に照らして裁判を行わなければなりませんでした。その、国際法を無視した東京裁判など当然無効なのです。

東京裁判を開催した本人のマッカーサーでさえ、1950年10月15日、ウェーキ島でのトルーマン大統領と会見した際に、「東京裁判は誤りだった」と告白しています。

1951年5月3日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で、「日本は侵略戦争をしたのではなく、自存自衛の為に戦った」という趣旨の発言をしています。

ベン・ブルース・ブレークニー 東京裁判弁護士

「国家の行為である戦争の個人責任を問う事は、法律的に誤りです。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるものであり、個人に対してではないのです。

個人に依る戦争行為という新しい犯罪をこの法廷で裁くのは誤りです。戦争での殺人は罪になりません。それは殺人罪ではありません。戦争は合法的だからです。

つまり合法的人殺しである殺人行為の正当化であるのです。たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としてその責任は問われませんでした。

 キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名をあげる事が出来ます。投下を計画した参謀長の名も承知しています。その国の元首の名前も我々は承知しています。

 彼等は殺人罪を意識していたでしょうか? していないでしょう。我々もそう想います。それは彼等(米国)の戦闘が正義で、敵(日本)の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからなのです。

何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのでしょうか?原爆を投下した者がいます。この投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認した者がいます。

 その者達が(東京裁判を)裁いているのです。

 原子爆弾という国際法で禁止されている残虐な武器を使用して、多数の一般市民を殺した連合国が、捕虜虐待について日本の責任を問う資格があるはずはありません。」

 裁判長のウェップは、「仮に原子爆弾の投下が国際犯罪であるにしても、アメリカがそれを行ったという事は、本審理といかなる関係もない」とブレークニー弁護士の発言を無視しようとしました。

しかしブレークニー弁護士は引き下がらず以下のように主張しました。
日本は、その非法なる原爆投下に対して報復する権利を持っています。
報復の権利は、国際法で認められているのです。

 ブレークニー弁護人の発言に、戦勝国側は驚愕しました。

 東京裁判の欺瞞を端的に暴いたこの発言を、戦勝国側は誰よりも、傍聴席に座っていた約200人の日本人に聞かせたくなかったのでしょう。

 同発言は昭和21年5月14日の公判で、裁判所の管轄権を巡る論争で出たものですが、途中でイヤホンの日本語同時通訳は切られました。

 この発言が広く日本国民一般に知られたのは、昭和58年に公開された記録映画、「東京裁判」の日本語字幕によってでした。

 ブレークニー弁護士は東京裁判終了後、東京で弁護士事務所を開きましたが、自家用飛行機で沖縄に向かう途中、伊豆の天城山に衝突して死亡しました。

 国際法を無視した戦勝国側によるリンチである東京裁判において、国際法に基づき、中立な立場になって日本側の無罪を主張された、ブレークニー氏のフェアな精神は、素晴らしいと思います。

 ハーグ陸戦協約の第25条に、

 「無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃する事を禁ず」とあります。

 広島・長崎への原爆投下も「ハーグ陸戦協定違反」です。

 拡大すると、非戦闘員の居住する地域への空襲そのものが、「ハーグ陸戦協定違反」です。

 ハーグ陸戦条約とは、1899年、オランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された、

 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約並びに同附属書」

 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の事です。日本人は武士道精神に則り大戦を通じて遵守しました。

 1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至ります。これは現在も有効です。

 ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規、陸戦条規とも言われます。

 交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されています。

 最も根源的な戦時国際法として、基本ルールに則って正々堂々と戦争を行うよう規定しています。

 云わば「戦争のルール」です。

アメリカ人ローガン弁護士は1948年3月10日、最終弁論・自衛戦論において、パリ不戦条約の草案者の一人である国務長官ケロッグが終結当時の1928年、経済制裁、経済封鎖を戦争行為として認識していた事実を紹介し、今次戦争を挑発したのは日本に非ずして連合国であることを詳しく論証しています。

アメリカ政府から対日戦争行為に匹敵する経済封鎖を受けておきながら、それでも忍耐強く平和的解決を図ろうとした日本政府の態度は『永遠の日本の名誉』だと、ローガン弁護士は堂々と法廷で訴えたのです。

アメリカ人でありながらローガン弁護士は聊かな追及の手を緩めることなく連合国側、特にアメリカがいかに経済的、軍事的に日本を追い込んだのかを論証したのです。

ローガン弁護士は最終弁論を終え、東京を去る際に全被告に対して、次のような挨拶を述べています。

「私は最初日本に着いた時は、これはとんでもない事件を引き受けたものだと後悔しないでもなかった。しかるにその後種種調査、研究をしているうちに私どもがアメリカで考えていた事とは全然逆であって、日本には20年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じてなかった事に確信を持つに至った。したがって起訴事実は、当然全部無罪である」

アメリカ人弁護士が2年半費やして確信した事実が、このように語られているのです。

 ただA項目に東条英機が入っているからということから、ABCが罪の軽重を表すと日本国民が勘違いしたところから、アジア全体がそう思いこんだのです。東京裁判の内容を正確に伝えず、その違いを十分知っていながら、敢えてそれを放置して世論操作に利用してきた官僚や旧政権党の自民党の責任は万死に値します。

 これらの矛盾を如実に示しているのは、南京関連で起訴された松井石根大将は、A項目(級)の訴因(36)すべて無罪にも拘わらず、BC項目(級)の訴因のひとつだけが有罪で処刑されたのです。

 中国は日清戦争以降の日本軍人を侵略者として問題にしているが、中国建国の母として敬われている周恩来は、日本留学中の1918年5月1日の日記に、靖国神社の大祭を拝観して感激したことを綴っているのです。これら靖国神社に関する基本的な知識が国会議員にあれば、靖国参拝問題など存在しないのです。

 GHQメンバーのヘレン・ミアーズは著書「アメリカの鏡・日本」の中で、

  「日本政府は少なくとも1945年5月に降伏の打診をしているが、この打診はアメリカ政府により公式に無視、あるいは拒否された」と証言しています。

 広島への原爆は1945年8月6日です。長崎へは8月9日です。

 日本政府からの降伏の打診をアメリカ政府が受けていれば、原爆という戦争犯罪で、多くの日本の民間人は死なずに済んだのです。

 何故アメリカは原爆を投下したのか?

 広島へはウラン式、長崎へはプルトニューム式です。つまり、2種類の原爆を人間の住む都市に落とし、その成果を確認する為の人体実験なのです。

 また、ヘレン・ミアーズの著書に記してある通り、原爆投下は日本に対して行われたのではなく、戦後のソ連との力関係の為使用したという側面もあります。

 


ああモンテンルパの夜は更けて

 昭和27年6月のこと、このやるせない心を抉るような歌が大ヒットた。「何の歌だろう?」いぶかった人々も直ぐに知ることとなった。

この歌はフィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚が作った歌だったのだ。

作詞がB級戦犯死刑囚 代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚 伊藤正康元大尉、歌ったのが「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡邊はま子。

この歌は、モンテンルパ刑務所の教誨師加賀尾秀忍から送られて来たものだった。

 戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時まだ異国で処刑されていくBC級犯がいることを知った渡邊はま子は驚愕し、レコード化に奔走し遂に大ヒットさせたのである。

これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが、悲愴な現を知ることとなり集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。

 戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡邊はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い渡航の困難だった代に手を尽くしてフィリピンに渡った。当時フィリピン政府からビザど降りない。単に戦犯の慰問と言うだけでなく、終戦時には宣撫問の途中で虜囚となり一年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。それでも彼女は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて戦犯と同じ刑務所に入れられようとも。

 昭和27年12月24日、歌手渡邊はま子の歌声が、モンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月、40度を超す酷暑の中で、渡邊はま子は振り袖を着て歌った。

もう随分と長い間見たことが無かった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。その歌は、この刑務所の死刑囚達が詞作曲したものである。

この歌が流れると、会場の中からすすり泣きが聞こえた。会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌いなさい」と言ったため、全員が起立して祖国日本の方に向かい歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあったようだ。

 昭和28年5月教誨師加賀尾秀忍のもとに、渡邊はま子から一つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きを持っていた。

 その頃、加賀尾はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取りけることが出来た。初対面の挨拶と面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。

加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋を開いた。

流れるメロディー。暫く聞いていた大統領は「この曲は何かね?」

加賀尾は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞した者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。尚もじっと聞いていたキリノ大統領は、ようやく自身の辛い体験を語り始めた。

 大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失ていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人達なのだ。戦争が悪いのだ。憎しみを持ってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ。」

この時に加賀尾のはからいで、500万の嘆願書が大統領府に届けらていた。

 死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦をけて釈放され帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。

横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡邊はま子の姿あった。


昭和27年

作詞 代田銀太郎

作曲 伊藤正康

歌手 渡邊はま子 宇都美清


(一)


(男)モンテンルパの  夜は更けて


   つのる思いに   やるせない


   遠い故郷   しのびつつ


   涙に曇る   月影に


   優しい母の   夢を見る


(二)


(女)燕はまたも   来たけれど


   恋しわが子は   いつ帰る


   母のこころは   ひとすじに


   南の空へ   飛んで行く


   さだめは悲し   呼子鳥


(三)


(女)モンテンルパに   朝が来りゃ


   昇るこころの   太陽を


(男)胸に抱いて   今日もまた


   強く生きよう   倒れまい


(男女)日本の土を   踏むまでは



http://www.youtube.com/watch?v=BoqVjdQmGE0