今年2024年は、ボクら長岡市民にとっては忘れることのできない「中越地震」から20年目の節目の年になります。震災記念日だった10月23日を中心に、年間を通して様々なイベントが開催されています。今日のブログ記事で紹介する、長岡市歴史文書館の企画展もその1つです。
長岡市歴史文書館は、市内の長倉西町にあります。昨年まで「サンライフ長岡」として勤労者の余暇活動の充実や健康の増進に寄与することを目的として使用されていた建物に、旧互尊文庫から移転してきました。
この歴史文書館で開催された「中越大震災20年と歴史文書館」という企画展に、行ってきました。企画展は11月16日(土)までの開催期間だったので、「滑り込みセーフ!」って感じでした。
企画展の様子を紹介する前に、わが家が20年前の中越地震でどんな被害を受けたのかを説明しますね。当時、ボクと妻は46歳。妻は長岡市内の職場で、ボクは燕市の職場で地震に遭いました。自宅にいたのは76歳の父と、高校1年生の娘でした(息子は首都圏で学生生活を送っていました)。地震後すぐにそれぞれが生存を確認し合うことはできましたが、娘からの情報で「家の中は大変な状況」であることや「電気も水道もストップしている」ことを知りました。ボクが自宅に戻れたのは深夜から未明にかけてでしたが、職場からようやく戻った妻と娘は余震の中で車中泊、父は家具が散乱する家の中で「眠れなかったわい」と言いながら、大イビキをかいていました(笑)。
そこからの数日間のライフラインがストップした中での生活や、自宅や職場の後片付けの様子は省略しますが、わが家は自宅は持ち堪えたものの、自宅に隣接している土蔵(おそらく明治期に建設?)は大きな被害を受けました。土蔵って、いわば「時代のゴミ箱」みたいなモノでね。そのゴミ箱がひっくり返ってグチャグチャになった様子には唖然とし、「いったいどこから手を付けようか?」って感じでした。
結局わが家は土蔵を解体し、その跡地にボクは今住んでいる小さな家を新築しました。家が完成したのは地震から2年後、ボクが単身赴任生活を送っているときのことです。ボクは単身赴任時代前半の週末帰宅時の多くの時間を、「土蔵の片付け」作業に費やしました。
その時、土蔵の中から多くの古文書等が出てきました。わが家の本家が(わが家ではないですよ)この地域では大きな地主だったので、分家のわが家にも「小作水揚げ帳」をはじめとする多くの水田耕作関係の古文書が残っていたというわけです。ボクは軽トラ1台分の古文書を長岡市に寄贈しました。その搬入先が、移転前の「長岡市文書資料室(現在の歴史文書館)」だったのです。前置きが長くなってごめんなさいね。ここでようやく、今日のブログの表題の「歴史文書館」につながります。
開催されていた企画展は思ったよりも小規模なものでしたが、20年前の地震を体験したボクにとっては感慨深いモノでした。当時わが家だけでなく多くの土蔵や家屋が解体されたり、公共施設に保存されていた古文書類も処分されそうになったため、その保存のために歴史文書館が大きな役割を果たしてきたことが、展示内容からよく理解できました。
そして、その展示物の1つである古文書の記録冊子の中に、ボクは見つけたのです。
わが家が寄贈した古文書に関する記録と、古文書に書かれた内容を復元したものが、冊子の中に残されて展示されていたのです。いやぁ〜なんか感激だなぁ。許可を得て、冊子の該当ページを撮影させてもらいました。
その後で学芸員の方と、いろいろ当時(地震から土蔵解体や古文書寄贈)のことや、わが家の歴史などについてもお話させていただき、とても有意義な時間を過ごすことができました。ボクが若い頃はまったく関心がなかったわが家の歴史について、この年になって(というか人生も終わりに近づいた頃になって)興味が湧くとは皮肉なものですね。15年前に亡くなった父は、それらに興味をもつことなくあちらの世界へ逝っちゃいましたので、今頃あちらでご先祖様に叱られていることでしょう。(笑)
年末年始に息子一家や娘一家が帰省して顔を揃えた時に、ちょっとわが家の歴史について語ろうかな?…と思いましたが、「また始まった!お祖父ちゃん、うるさいよ!」って息子や娘に言われるかな?やっぱりやめとくか?