中央本部溝口です。
さっそく唐突に本題に入りますが、労働組合はある意味で、誤解を恐れずにあえて言うなら、宗教と通ずる部分があるように感じている。
労働組合が勝ち取ってきた成果の中には、例えば給与や定員増は、たとえ実現されたとしても、外部環境の変化に依存する部分が大きく、労働組合の力がどの程度作用した結果かというのは、本部に身を置きながらも、今ひとつ確信をもって、ひとえに労働組合の成果であるとは言い切れないように感じている。労働組合の成果であると信じるしかない、そんな次元の話だと感じている。そして、謙虚にそう受け止め、ひとりの組合員としての目線で率直に組合員との対話を重ねていくことが、自分なりの本部専従としての心構えである。おおっぴらにこれまでの処遇改善の実績を「組合のおかげで今の処遇があんねんぞ」と上から目線でアピールすることは、必ずしも組織強化・拡大につながらないどころか、信仰の押し付けみたいになって、ますます組合員の心が組合から離れていくんじゃないか、そんな危惧さえ抱いているところである。
そんな思いで、労働組合の専従役員をやってきて、近頃、学生時代から関心のあった宗教を題材とした本をよく手に取るようになった。最近読んだ本では、遠藤周作の「沈黙」「イエスの生涯」にはいたく感銘を受けた。「沈黙」は我々日本人にはやや難解であると思う。日本人の生活において、形式的な宗教儀式は至るところに根付いていたりするが、信心というか、内面的な部分では、信仰とはやや縁遠い生活を送っている人が多いのではないだろうか。わたし自身も含めて。一方で「イエスの生涯」は、キリスト教を紐解く、もしくは身近に感じる上で、とてもいい本だった。文章の冒頭、感銘を受けたと書いたが、教祖、キリストとしてのイエスではなく、一人の人間としてのイエスを小説家目線で果敢に描き切った遠藤周作に感銘を受けたのである。キリスト教の中でも「イエスの復活」については一般の人でさえよく知っているくだりだと思うが、「イエスの生涯」では、イエスは実際には生き返らなかったとの説を支持している。しかしながらイエスの弟子たちは、当時イエスは間違いなく生き返ったと、具体的な事実として生き返ったと強調していることにも言及しているが、このあたりの事実関係にどう整合性を持たせるのか。ここが醍醐味である。
事実はこうである。
・弟子たちの認識の中では間違いなく生き返った
・「生き返る」という物理的な現象は生じなかった
この2つの事実は両立する。なぜならば我々人間の認識とはつねに主観を脱することができないからである。主観ならざるをえない認識を通じて、私たちは物事を知覚するのである。
やや自己満ワールドを展開してしまった感が否めないが、標題に掲げた、労組と関連することも述べておきたい。
イエスが生き返ったことを強調し、キリスト教を宗教として体系化した弟子たちにとって、イエスは彼ら弟子と伴に生き続けた「伴走者」だったのだ。
「沈黙」では、禁教時代の日本で教義を捨てるよう厳しい拷問を受けた司祭と伴に生きる「伴走者」としてのイエスが描かれている。
労働組合は組織であり人ではないが、組織として組合員に寄り添う「伴走者」であってほしいと、わたし自身は願っている。
民間企業に入社した同世代の友人より給与が安くてモチベーションが上がらない組合員、定員が削られ山積みになる仕事に押しつぶされそうになりながら耐えている組合員、パワハラで苦しみ今にも職場を辞めたいと感じている組合員、労働組合はこれらすべての組合員に寄り添える「伴走者」であってほしい。
そんな理想に一歩でも近づけるよう本部専従役員として、一つひとつの行動に取り組んでいきたい。