・・杏子は女といふものは、男の前で見ないと、本当の気持ちが判らないような気がした。
・・「えらい人といふものにはそれぞれ癖があって厭なものさ。平凡で人間としては爽やかな男が一等いいんだよ。えらい奴には飽き飽きするよ。えらくない男は少しづつえらくなることに無上の愉しさがあるね」
「えらくなれなかったらお金がとれないじゃないの」
「それなんだ。其処で何時も問題は行詰まるんだが、食べられるだけ取ればその中で遣り繰りをして、愉しいものを最小限度にすくひ上げるんだね。卵5つを買ひ、菊一本を買ひ、古本で文庫本一冊を買ひ・・・」
「また始まったわね、千圓を一萬圓に使へと仰有るんでせう」
「そうだよ、我々貧乏人は千圓をこなごなに砕いて、そのかけらで、想像も出来ない生活の設計が出来上がるんだ。林檎や夏蜜柑は二十五圓出せば買へるんだ。驚くじゃないか。あんな立派な奴を二個も買へば二日間はある。印度林檎を一箱買ふ奴は、その美しさも詩情も喜びも持てない。
夏蜜柑一つだって座敷の真中に置いてみたまえ。いかなるものも圧倒されるし、よく考えると此の小さい奴の威張らない美しさに負けてしまふ」
室生犀星
これ、室生犀星の「杏ッ子」の大好きなところです。
卵5つを買ひ、菊一本を買ひ、古本で文庫本一冊を買ひ・・・
「千圓を一萬圓に使へ」
今日はこの言葉をあなたにプレゼント。