一般的に仕事に従事する現場の職員は否が応でも24時間体制で激務についている場合が多くなっている
全員とは言わないまでも自由が利かない上に拒否できない市議との仕方をしてる様に見える
それはむしろ高齢の労働者の場合が割合としては多い様にも感じる
働き世代の上層部は自分の都合に合わせて24時間ダイエットのようなことを自分の体調に合わせてやることができる
過酷だ、と言いつつもわりかし自由が聞く場合が多く自己都合でその働き方をコントロールする
なぜなら部下がいるからである
体調が悪いからといって仕事を部下に丸投げすることもできる
それが可能と言う意味で精神的に楽だ
そして時々申し訳程度に自分の都合には自由がきかないようなフリをして徹夜をしたりすることができる
現場の不自由さと上層部の自己満足さ
ここについては認識の共有はありえないだろうと感じるのである
上層部の偉い方々はそんなことはないと言うだろう
そうかもしれないね
でも、
その対象は若い新卒や新卒からの転職者たち
特に即戦力の若い活力と言われる人たち
彼ら(若い新卒)の雇用は引く手数多であるから、ワガママなことも通るし、逆に企業側からワガママを言える環境を提示してもらえる時代になってるのかもしれないね
そんなこんなでダラダラしてると、40歳代にも成ると世間の風当たりまるで変わる
嫌なら辞めてもいいよ、と
そう言われ出す
いくら実戦経験が豊富でも体力の衰えが隠せなくなり始めると肩たたきが始まるのである
なので、中高年齢層の労働者は不眠不休でも反論すら言えずに労働に殉職する様になる
そういった意味だと負け組という言い方もできるかもしれない
では、勝ち組はどこかというと
なかなか少なくなるが、経営側の腰巾着である
大企業の著名な経営者は言わずもがな、役員や専務や社長クラスにある程度言えるのではないか
それでも、その連中もいずれは捨てられる時は来る
捨てられる頃になって気づくのである
現場の職員が如何に耐えながら劇務をこなしているのかに
現場の精神的に疲弊した高齢の労働者にとって居場所は無い
有ったとしてもとても狭い
まぁ、若い方の中でも身体障害者や世間的に頭の悪い人間には生きにくい現場が待っている
いまだに?
と言う疑問が生じる
江戸時代でもあるまいし、と言いたくもなる
そもそもが生きることは「生命」そのものが生きにくいという、それがこの世、空間なのかもしれない
しかし生きる望みは持ってて良い筈であり、それは万人に平等であろうと思う
いや、思いたい
そこに至っては上層部と言われる人たちは希望という感覚を十分得ている様に思う
逆に下層部は生きる望みはなかなか見え辛い感覚を覚え続ける
なぜか?
嫌なことを嫌な時間に嫌な方法で嫌な方々の指示で実施しないといけない
けれど、それを断れない精神的な苦痛があるからだ
そういう下層部に対して上層部はそれをコントロールする権利を有しているからである
この世は平等ですか?
平等に不公平が訪れますか?
不公平はもともと不公平です
世の中は不平等です
平等なのは命が万人に於いてそれぞれ一つずつしかないことくらいでしょうね
上級国民という言葉を聞くと残念ながらその様なことを連想してしまうのだ