老人ホームに住むと、本当に身も心も老人になってしまうらしい。
年老いても、現実、日常で慌ただしく生きていれば、なかなか老人らしくなれない。
それはまだまだ現役だからだ。
現役は現役だ。
世の中の役に立つ。
いや、世間が老人を世の中のための上手く使うことが大事だ。
ところが、家の中にこもってしまい、老人らしくしていると、本当に老人になってしまう。
どんなに歳をとっても、現実社会の中で慌ただしく若者の中に紛れて生きている。
そうすると、見た目は素晴らしく老いていても、実際の生活機能はまだまだ現役で生き続けることになる。
そもそも、「都会」というものは、老人ホームそのもののような気がする。
例えばマンション生活は隔離された鳥籠のような狭い部屋の中で鬱々としている。
まさに、老人ホームそのもの。
老人ホームと全く同じものであろう。
言霊を避けるために「ケア住宅」とか「なんとか園」とかネーミングして印象良くしてるが、結局はいわゆる老人ホームだ。
独房に入れられた犯罪人の話であるけれども、完全に隔離された部屋の中にいると、3日で精神異常を発症し、正常ではなくなってしまうらしい。
「都会」と言うものはそういう環境を確立している。
だから私は年老いても老人ホームには入りたいとは思わない。
かつての田舎の年老いた人たちは、自分の家から離れようとしなかった。
「老人ホームに入れ」と若者が言っても、なかなかそこには行かない。
いくら便利な都会に在ってでもである。
若者は今も昔も勘違いしてる。
その若者がだんだんと老人化してきたが、同じ意識のまま変わらないから老人ホームが増えていく。
昔の老人は、現役の現実の中で、あるいは自然の中で生きようと思っていたらしい。
自然の中にいると、多くの生きた生命の息吹きが、自分の中と交流をする。
自由が効かないぶん、自分が自分で対処することを余儀なくされるから、生きないといけない心が活発化する。
元気が必然的についてくる。
でなきゃソコでポックリだ。
だから、本当に生きたまんまで生き続けることができる。
それは死の直前まで続く。
したがって、多くの人はポックリと言われ死んでいく。
そういう場合が比較的多い。
まぁそうは言っても 確かに面倒な病気を患ってしまえば、寝たきりの人もいたろう。
面倒な病気はたいてい現代病だ。
この国は、全国的に都市化が進んでしまい、全国的に老人ホーム化した国になった。
そんなに広い国土では無いからだ。
それが明治維新以降、急ピッチで進んだ。
確かに江戸時代では「長屋」というものがあり、それが集団構造をなしていた。
バラック小屋のようなところに老若男女がひしめき合って大勢住んでた。
けれども、それは存在構造そのものが違っていた。
周囲との交流を余儀なくされる構造であった。
そこは隔離された世間と言うものではない。
襖(ふすま)を多く使っていたのはそのためかもしれない。
合宿に近いか。
現在のマンションやアパートは襖ではない。
非常に強固に仕切られた独房である。
それが大きな違いだと思う。
私は老人ホームには入りたくない。
命が尽きるまで、現役社会の中でうごめいていたい。
できれば、自然の中で。
人はただ長く生きれれば良いと言うものではない。
いつまで生きたとしても生きる上での生き甲斐や幸せを感じながら暮らすことが重要でしょうが。
苦しみながら延々と生きる老人を増やして、それを幸せだと勘違いしてる。
そういった現代の考えが見当違いだと世間がそろそろ気づいてほしい。
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