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米国は第3の原爆投下を計画していた>8月14日には3番目の標的都市も決まっていた

2023年08月16日 22時03分58秒 | 歴史的なできごと
1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた

広島原爆 リトルボーイ

>終戦直前8月14日、米大統領
>東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった

8・15・2021


テニアン島に到着した巨大なプルトニウム爆弾「ファットマン」。1945年8月9日に長崎へ投下された。(UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/GETTY IMAGES)

 1945年の夏、米国が世界で最初の原子爆弾を投下したとき、戦争は永久に変わった。たった1個の爆弾が、都市とその住民を丸ごと消し去ってしまう時代が訪れたのだ。 ギャラリー:原爆投下候補地を挙げた機密文書ほか、米国は第3の原爆投下計画 

写真と地図と機密文書 21点  

米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。  

長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのはハリー・トルーマン大統領の脅しだったとする主張が根強くある。しかし、それは決して単なる脅しではなかった。  

第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前にトルーマン大統領は沈痛な面持ちで、第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。  

米国の計画では、2発の原爆で戦争が終わるとは考えられていなかった。核兵器に加え、日本の本土決戦が必要になるだろうと予測されていた。原子爆弾は強力な新兵器とはなるかもしれないが、それが決定打となるのか、日本の戦意を左右しうるのかは、まったくわかっていなかった。  

日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを承知していた。1945年半ばに内閣の多数派を占めていた軍部は、米国を「流血」させ続ければ米国民はやがて戦争に飽きてくるだろうという淡い期待を抱いていたが、「和平」派はこれを愚かな戦略と考え、そんなことをすれば日本が崩壊してしまうと危惧していた。  

もし米国が日本の降伏を引き出すなら、軍部の支配を切り崩す必要がある。これまでの空襲作戦だけでは十分ではない。米軍は1945年3月から何度も日本の都市に対して空襲を行っていた。  

東京大空襲では、一夜にして10万人以上が死亡したとされ、数百万人が家を失った。ほかにも7月までに日本各地で60カ所以上が空襲を受けていたが、日本が降伏する様子はなかった。直ちにその態度を変えさせるには、原爆が革命的な武器であることを日本に理解させる必要があった。


目標都市の選定
 米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月(ドイツ降伏の約1週間前)に第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。  

候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。 

 同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。  

6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。また、京都もそのすぐ後にリストから外され、空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。  


1945年7月、ポツダム会談に出席していたトルーマン大統領とスティムソン陸軍長官のもとへ、ニューメキシコ州のトリニティ実験場で原爆実験が成功したとの知らせが入り、トルーマンは興奮した。それまでは原爆開発にあまり関心を示していなかった大統領だったが、今やその新型爆弾が日本への強力な武器となり、ソ連に対してもメッセージを送ることになるとの理解にいたった。 

 京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があった。長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。 

 最終的な攻撃命令の草稿はグローブスが作成し、トルーマンが閲覧した後、スティムソンとジョージ・マーシャル陸軍参謀総長によって承認され、7月25日に発効された。トーマス・ハンディ参謀総長代行からカール・スパーツ太平洋戦略航空軍司令官に送られた命令書には、次のように書かれていた。 「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。 


 それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。


1回目の投下
 日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。  このテニアン島へ7月29日、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。  8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。

第2の攻撃
 ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。  

8月6日時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は8月8日、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。  


日本がまだ広島で調査をしていたころ、次の投下準備は既に始まっていた。8月8日に気象予報を確認すると、作戦予定日とされていた10日の天気は思わしくなかった。そこでテニアン島の幹部はワシントンDCに相談することなく(トルーマンだけでなくスティムソンにすら知らせなかった)、当初の命令書により次の作戦遂行の決定権も自分たちにあると判断し、時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。  

目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市(現北九州市の一部)だった。ところが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか(前日に近くの八幡市が空襲を受けていた)視界が悪かった。ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。 


1945年8月9日午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。  


日本の大本営は8月9日、数日前のソ連による宣戦布告とそれに続く満州侵攻について話し合っていた時に、長崎が攻撃されたとの報告を受けた。このとき、日本がさらなる攻撃を予測していたかどうかは定かではない。しかし2回目の攻撃があったことで、米国には爆弾が1個しかないかもしれないという期待は吹き飛んだ。  

ところが、2回の原爆投下もソビエト侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。


待機、そして次の投下への準備
 米国の首都は騒然としていた。8月10日、日本から条件付き降伏案を受け取ったトルーマン大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。  ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。8月12日か13日にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。  トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。マーシャルはグローブスへ「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。  広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。  当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。  いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。
第3の原爆、標的は東京だったか
 日本から降伏案が提示されたことは良い兆候ではあったが、トルーマンと閣僚にとっては十分ではなかった。受け入れられるのは無条件降伏だけであると、トルーマンは返した。そして次の数日間、ワシントンはひたすら日本からの返答を待った。米国メディアと軍では、次の原爆がいつ、どこへ落されるかについて様々な憶測が飛び交っていた。  

トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。「明確な目標を狙ったほうがより多くの破壊効果が得られるが、現時点では破壊よりも日本政府の指導部へ心理的圧力をかけるほうが重要であると考える」  

同じ日、スパーツは「上層部がこの提案を検討中」であり、「最終決定」は2日以内に下されると告げられた。 

 8月13日、スティムソンはテニアン島への部品の運搬を再開したほうが良さそうだと示唆した。グローブス少将は、今後の原爆投下スケジュールに関する最新情報をマーシャル参謀総長に伝達する役割を任された


 マーシャルは、準備が整い次第原爆を使用すべきか、それとも日本本土進攻へ備えてそれを取っておくべきかを思案していた。本土決戦となれば、約12個の原爆が必要となる。いずれにしても、グローブスの代理人がマーシャルの代理人へ伝えたところによると、第3の原爆は「運搬の準備が整い、命令を待っている」状態であるということだった。  


8月14日、スパーツは相変わらず東京を次の目標にせよとの主張を続け、「一刻も早く」第3の原爆を「東京へ投下すべく」、テニアン島へ運ぶよう求めていた。だが、またも決断は保留中であると告げられた。グローブスは、翌日にでも原爆投下に関する決定が下されると告げられていた。  

その日の午後、トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。


終戦
 だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。  

第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。



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雨上がりの境内で

2023年08月16日 17時03分31秒 | 日々の出来事

これから、雨になりそうです。


8/13/2023
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【速報】東海道新幹線 5時間半ぶりに全線で運転再開「東京~新大阪間」

2023年08月16日 16時03分46秒 | 社会のことなど
【速報】東海道新幹線 5時間半ぶりに全線で運転再開「東京~新大阪間」静岡県内で雨量計が規制値に達した影響(MBSニュース) - Yahoo!ニュース 





【速報】東海道新幹線 5時間半ぶりに全線で運転再開「東京~新大阪間」静岡県内で雨量計が規制値に達した影響
8/16(水) 14:32配信




 8月16日、JR東海は静岡県内に設置している雨量計が規制値に達したため、東海道新幹線「東京~新大阪」間の上下線で運転を見合わせていましたが、午後2時10分に運転を再開したということです。


【画像を見る】運転見合わせが続いていた新大阪駅…改札外には「人・人・人」長蛇の列


 JR東海によりますと、東海道新幹線では静岡県内に設置している雨量計が規制値に達したため、東海道新幹線の「東京~新大阪」間の上下線で運転を見合わせていました。再開後、列車の運休や行先変更を行う予定もあり、平常運転にはしばらく時間がかかる見込みだということです。


 また、JR東海は、雨の状況によっては、本日の運転を取りやめる恐れもあるとしていて、本日の旅行の延期を含め、検討してほしいということです。



 東海道新幹線内での運転見合わせの影響で、山陽新幹線の「博多~新大阪間」でも一時運転を見合わせていましたが、午後0時30分ごろに運転を再開していました。


 なお、東海道新幹線と山陽新幹線の直通運転は、終日中止するということです。







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「こんなので、がんが見つかるわけない」「人間ドックが無意味なんて病院だって分かってる」...《患者には口が裂けても言えない》医者が腹の底で考えていること

2023年08月16日 13時03分11秒 | 医療のこと
「こんなので、がんが見つかるわけない」「人間ドックが無意味なんて病院だって分かってる」...《患者には口が裂けても言えない》医者が腹の底で考えていること(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/2) (gendai.media) 


2023.08.14

そもそも人間ドックは検査専門の医療機関で行われる。そういうところで働いている医者は、普通の病院の激務に疲れて転職した人が多い。人間ドックは燃え尽きた医師の終着駅ともいえる.

週刊現代講談社

月曜・水曜発売プロフィール
学会、縦割りの医局、医療費に病院経営。そんなことで医者の頭のなかはいっぱいだ。本当は患者のために最善を尽くしたいと思っているのに、そうはいかない事情が山とある。彼らの腹の内を探った。


4つめの記事『「最近も、私のところでこんな医療事故や不正がありました。その原因は...」《患者には口が裂けても言えない》医者が腹の底で考えていること』より続く。


「こんなので、がんが見つかるわけないよ」
「人間ドックは異常を見つけるのが目的です。しかし、治す必要のない異常まで拾い上げてしまう。


検診の結果に悩まされてストレスがたまり、かえって悪くなる人もいます。そうやってストレスで病気になってしまうことを私は『検診病』と呼んでいます」


こう語るのは前出の新見医師だ。


人間ドックを受けると、血液検査など基本的な検査項目の他に、実にさまざまな検査オプションがつく。心配性の人ならば、これらの検査を受けないと、がんや脳卒中の前兆を見逃すのではないかと不安になるかもしれない。

だが、そのような検査オプションは、医学的な根拠が乏しいものがほとんどだ。医師で『人間ドックの作法』の著書がある森勇磨氏が解説する。

「例えば腫瘍マーカー検査がよく知られていますが、あまりお勧めできません。腫瘍マーカーとは肺がん、大腸がんなど特定のがんが存在するときに確認されるタンパク質などの物質のことですが、そもそもがんをみつける精度が低い。マーカーが高く出ても結局精密検査で組織を切り取って調べる必要があり、身体への負担がかかります」

なんのための検査なのか? 知識や熟考が必要な理由

「他にも放射線を含んだ物質を身体に注入した状態で画像を撮るPET検査もがんの早期発見のために行われます。しかし、本来この検査はがんの治療中に腫瘍が小さくなっているか、転移がないか調べるためのもの。このPETを受ければどんながんでも見つけられるというわけではなく、通常のがん検診より効果が高いわけでもありません」


他にも肺がんのレントゲン検査や遺伝子検査はお勧めできない。


「唯一、有効なデータがあるのは、低線量CTです。この検査を受けた人は胸のレントゲンだけを撮影した人に比べて、肺がんの死亡率が20%ほど低下しています。ヘビースモーカーの人は受けたほうがいい。ただし被曝のデメリットがあるので、非喫煙者はよく考えてください」(森氏)


そもそも人間ドックは検査専門の医療機関で行われる。そういうところで働いている医者は、普通の病院の激務に疲れて転職した人が多い。

「人間ドックは燃え尽きた医師の終着駅ともいえる
。異常があっても彼らは治療をしないし、どうしてもビジネスのための検査をしたがる傾向があります」(総合内科専門医の大竹真一郎氏)。

検査の結果に一喜一憂して、人生を振り回されないように注意したい。


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【速報】東海道・山陽新幹線 東京~博多の全線で運転見合わせ 客は落胆「今後どうなるか」新大阪駅は大混雑

2023年08月16日 12時41分52秒 | 社会のことなど




【速報】東海道・山陽新幹線 東京~博多の全線で運転見合わせ 客は落胆「今後どうなるか」新大阪駅は大混雑(読売テレビ) - Yahoo!ニュース 

> これは、実際、直面すると絶望的な気分になりますよね! 
 一刻も早い復旧をお祈り申し上げます。

【速報】東海道・山陽新幹線 東京~博多の全線で運転見合わせ 客は落胆「今後どうなるか」新大阪駅は大混雑
8/16(水) 11:54配信


読売テレビ
混雑する新大阪駅 午前11時ごろ


 東海道・山陽新幹線は、大雨の影響で東京~博多間の全線で運転を見合わせています。


 JR東海とJR西日本によりますと、東海道・山陽新幹線は、台風7号の影響で、15日は台風7号の影響で、名古屋~岡山の間で、終日、運転を取りやめました。


 16日は始発から通常通りの運転を再開していましたが、静岡県での大雨により、雨量が規制値を超えたことから、午前8時半ごろから運転を見合わせ始めました。新富士~静岡間では、午前10時半までの1時間の雨量が60ミリに達し、今も雨が降り続けているということです。


 新大阪駅の新幹線改札口では、16日午前から運転再開を待ちわびていた利用客が大勢詰めかける中、運転見合わせのアナウンスが響き、構内は騒然としています。


 改札口を訪れた利用客の男性は、「本当は15日に自宅に帰る予定だった。きょうから仕事の予定だったのですが、今後どうなるか分からない」と落胆した様子でした。


 JR東海によりますと、運転再開までには相当な時間がかかる見込みです。










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