◆君たちはどうして知ろうとしないのか。知るということはどういうことなのか、考えてみたことがあるか? 理解するということ、分かったということはどういうことなのかと考えたことがあるか、と。
◆普段に動物としての僕らは、まず、ストレスの解消を望む肉体であるし、排除しようとする生き物ではある。さらには、そのことに自分を高めようとする事柄であることを認めた者は、それを自分の事として意味を知り消化しようと努めるに違いなく、そうでなければ、それは自分に無関係な無駄なものとして廃棄するだけのことなのだ。人という生き物はそんなものなのだ。土塊に霊を吹き込まれて初めて人になったという。自分を含めて人をしろうではないか。そうすれば、この地上に生を受けて誰でもがこの生ある間になさねばならない宿題があることを知るだろう。
◆人、生存競争に基づく、動物としての指向の欲求は、環境が整えられるにつれて弱体化しつつあるけれど、それも「いつ」の「何を」元にと基準を定めなければ、本来、その人の評価などできぬものなのだが、人は他の批判とともに自己肯定化を図る。そういう生き物なのである。あなた方はあがめ奉る言葉だけを求めているのか?ルターは神学には試練が必要だと言ったではないか。多くの者が教師になってはいけない。教師は特別厳しい裁きを受けるのである。このことを良く考えて見よ。これはパウロの言葉である。
◆クリスマスは、当時のその地の冬至の行事を採用して作られてきたものである。それを境に、すべての自然の命の原点ででもある太陽の日が長くなっていくことから救い主の誕生としてふさわしいものとして改良されたものだ。それまでの風習、伝統になじませる為に地面に立ち糧を得るという生き物としての当たり前のことを第一に感謝し忘れ得ぬ為にとクリスマスの定着に努力がなされたものである。人は土地から得たものを食べて生きているのであるということ。この生き物として当たり前のことを忘れてはいけない。その為に人は額に汗水たらして働かねばならなくなった。ここに、この地上に十字架が建つのではなかったか。なぜ、欧米の空論を振りかざすのか。肉において先祖は今の我々の命をつないできたのではなかったか。なぜ、その国のことをことを理解しようとしないのか。神は地上の人に理解の種をまかれていたのだ。そのことを知れ!もっと近くに来ていることを知ろうではないか。
◆組織というしがらみに、安住し、自分のコトバをもたないのはどうしてなのか。その組織に入ることが第一なのか、社会から見れば、批判なきであるならば、その世界は実に甘いと言われなければらならない。本来、自分の言葉で戦わねばならないはずなのに・・・。我らは苦しみの中から多くを学ぶのである。・・・