marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(617回)  少しばかり、神を伝えることの手段について思う(その1)

2020-01-28 20:05:44 | 日記

◆東京に散歩に行ってきたとき、一流商社を退職されてから牧師になられた方とお会いしお話をしてきた。年齢からは今は退任されて、一躍世界的な神学者となられた故、北森嘉造の「神の痛みの神学」に現在嵌っていると言われ、この高齢化時代、もっとも考えなくてはいけないことであると。その提言なる論文をメールで送っていただいていたのだが、それを僕は東京に行く前に僕のいる教会でたまたま司会担当にあたった祈り会で紹介をした。僕の意見をゴチックで追加して。

◆その先生は、退任されても時折、講演に呼ばれることがあるらしく、東京の方の教会で講演で紹介された内容であるということであった。今年初めにも東京散歩の写真をブログで掲載したが、その時も実はあってお話することがあって、その時から、「神の痛みの神学」のことを話されていた。今はT神学大学でもこれは教えられていないのだよ、と言われたときは少し驚いたのだった。

◆海外でも一応評判になった「神の痛みの神学」であったが、教えられて、どうのこうのというより、イエスが十字架上で我らの罪を担いたもうて現代においてすくなくともその痛みが、神学を学ぶ者には教えられないと分からないというのは、いかがなものかと思ったものだ。と、いって偉そうなことはみじんも言えない者なのではあるが「十字架の神学」ごときは身につけていないと今のキリスト教(界)は実に心許ないと思ったものだ。・・・だからという訳ではないのだろうが、実際この世での戦う自分の言葉を、聖書から引き出された自分の言葉を持っていないようにも見えてしまうのだ。・・・これが弱さである。

◆社会的な組織の中で揉まれもせず、人的組織内での混乱さ、世界の状況などを身をもって体験せずに、6年ほどの学びをして社会に出ていきなり、一応あがめてまつられるという身分に身を置くというのは、実に心もとなく、語られることは真実としても、自分の腹からの言葉にはなっていなくもないと感ずることが多くある。まして、露骨に石持て迫害競られる時代でもないのにである。いや、そういう時代だからこそなのか、というべきか。

◆現代は、一般人の方が、聖書の知識が豊富になれる時代である。youtubeなどで学びも出来るし、今の世界状況やメッセージまでが聴ける。むしろ専門知識に没頭することによって、本筋から離れてしまっているようにも思われる方々が居られるのはどうしたものか、である。・・・続く