marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(616回)  東京にまた、散歩に行って来た・・・「人と言う生き物の組織のありうる姿(終わりにします)」

2020-01-16 08:55:36 | 日記

※先、ブログの間、東京にまた、散歩に行ってきました。よい天気、今年の正月は雪がなくて、それでも田舎からでて暑いくらい。何年ぶりだろう、電車の中の混雑を体験した。東京駅ホームに流れるメロディーが変わったな、あれは、ワーグナーの楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の第1幕への前奏曲のイントロではないか・・・。僕はこの曲好きだけど、オリンピックで海外から人を受け入れにはこの曲は替えた方がいいかも。今は気にされないだろうけれどヒットラーがワーグナーが好きだった、あの曲の人の気持ちを鼓舞するような高揚をもたらすリフレイン・・・。 

◆先までのブログは何の事やらかと思われるだろう。第一に世界のベストセラーは事実、THE BOOKと言われる聖書である(世界はそれで動いている)。少なくとも欧米は、この宗教性(といっても人知では到底、計り知れない、つまり大脳資質を通しての言語化以上のものが関わっていると思考が一応規定されている)ものが基底にあるので、その言語化以前に宗教化された思考基板がすでにひかれているわけで、つまり人が言葉を発し、文字化した時点でその思考の基が、是非を問わず、人が創造者により創られたが故にこの地上においては、「正しいと思われる見解」も「間違っていた(あとで思えば)見解」も、その時期、その時代にふさわしい(例えそれが、戦争という悲劇となっても)地上の人の動向であったと見なされる訳で、総じて後に鳥瞰的思考にさらには、霊的高みに登り示唆(啓示による教えと言えばいいいか、経時的流れの中でと言えばいいか)を受ければ、「天上界でのこの世を善きに創造された生きて働いておられる唯一の天地万物を支配される神」と、「神に反逆した天における天使の長で堕天使となった悪魔(悪霊)」との戦いが、この地上で繰り広げられているのではないだろうか・・・ということが、体験的に思わされてくるのである。事実、世界の動きをみれば、イエスの再臨は近いのではないかというような、抹香くさい話も笑い事ではないようにも感じている昨今なのである。

◆使徒パウロは、東には行かず(使徒言行録にそれは「キリストの霊に遮られた」と書かれている。東へ福音を伝えるという当初のパウロの思いは、旧約の民がキリスト以前に東方へ離散していたからなのであり、使徒トマスは復活のイエスに出会い(離散した)ユダヤ人に待ち望んでいた聖書(旧約)に著されていたメシアの到来を伝えに東に向かった。そしてインドで殉教した。中国まで行ったといわれる。日本古代にはすでに多くのキリスト者が中国にいたのである。)西の方、哲学の国、マケドニア(ギリシャ哲学の発祥)、ローマ(すべての道はローマに続くと言われた、ローマ法という法律のあった国)に向かった。つまりパウロが西へ向かわしめられたのは、考えれば、これも神の摂理なのであるといことになるが思弁と社会の成り立ちを規定する法令に雄弁で優秀なパウロにその任を与え異邦人であろうともこの地上の被創造物であり、神の似姿に創造されたどのような人へも今や福音が示されたから、受け入れるように(人、自らの言葉と意思により自覚せよとの啓示があった)との使命に燃えたのだったことが理解される。 (クリックで拡大 高校「世界史」教科書です。空海はキリスト教に触れて大いに影響を受けた。高野山大学では聖書も学ぶ)

◆人は与えられた自分の言葉で神の言葉を受け取り、責任を果たすべく使命があるということなのであった。例えば、高校の世界史の教科書を見よ。なぜ、より古い時代のユーラシア大陸の時代から書かれておらず、中近東からヨーロッパの歴史(先史から、すぐに古代オリエントへ)から書かれているのだろうか。日本のあるいはどこぞの国でもいいのだが、例えば、歴史学者であられ多大な日本の古来の歴史に示唆を与えた梅原猛でもいい。右翼的思想家の日本の誰ぞでもいいのですが、言葉で他の人に理解してもらうためにはと言ったらいいか、神の言葉の認識を図るべく、と言ったらいいか、反目するにおいても必ず西欧哲学思考方法を経由しているし、その影響は計り知れない。人の使う、他人に意識を述べ伝えるというその言葉のありように、西欧の(キリストの教えの影響下にある)思考手段をかならず通っているのである。言葉の勝利なのである

◆この国においても、右翼と言われる方が働くからなのか盲目になってはいるが、実は古代の自分達が守ってきた歴史の根源は、地球という星を普遍的に意識する以前から地球規模でグローバルに人々の交流があり行き来して、まさにこの国自体がその終着点のようにもなっていたのであるということに気づかされるであろうと思う。そこで、先のブログなのです。もやもや書いて、終わりにしか触りを書いていないが、しかし、この国においては!なのである。この国の思想の基底をつくってきたのは、「記紀」以前からの多くの言語化してはいけないと封じられた(記紀や風土記や新撰姓氏録などでもいいけれど、それらを著さんとした動機となった当時の人々の受けた啓示というものは、決して文字とはなっていない。なれば怪しげな宗教性になるものだが、現に実に言語化されない宗教的なもので政治は行われていた。)背後にいた、非常に優れた多くの渡来人たちであったろうと思わされて来たのである。

◆彼らの国造りのありかたが、彼らの西の彼方から時代を経て、国々に同期し、人の群れのこの国のありかたの是非を体験をとおして形成すべく、太陽の昇る東へとひたすら歩みを続け、この日本に到達したということなのであった。ここまで、なんと漠然とした書きようであるのだが・・・。だいぶ仰々しい「人と言う生き物の組織のあり得る姿」の表題も今回で終了するけれど、僕の中では考え続けるテーマなのです。振り返ってみれば、キリスト教が基底の欧米の真摯な思想家は、すべてが「神が創造されし人とはいかなるものか」という課題に収斂しているのである。僕は今、フリードリヒ・ハイエクという思想家に傾倒しはじめた。・・・Ω