marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

K・ゴーンさんの父親の神父殺し!!! 「栄光の影」

2020-01-20 10:19:02 | 日記

◆K・ゴーンさんの父親が、神父殺しであるとすれば、まさに今も混乱のあの地で、僕のブログ 433回(2017年10月12日掲載)のカミュの「異邦人」が殺人を犯したムルソーに懺悔を迫る場面(舞台はベイルートではなく、アルジェなのだが)で、司祭の首を締め上げ放り出し、すっきりしたという場面の殺人だから行き過ぎ版になるわけだ。(内容の一部をブログ433回に書いたので読まれたし)いずれドラマを人は「栄光」とともに実はその「影」を、「霊的」に僕らは分からないが天使と共に肉として霊的に引きずっている悪魔からの影響を受け、自分の人生ドラマ・・・栄光と没落などの不名誉を演じそれを創って行っているということになる。それは、地上に命を持つ僕らはみんな同じでそうなのだが。

◆人を創造されし神の歴史、現に生かされつつある人の生き様、それらを先(前)理解として学んで身につけた司祭がまったく自然人であるただの人に、その肉に依存して朽ちていく生き物の大脳皮質に新たな言葉を認識させようとしても、それはまったくと言って「豚に真珠」「馬の耳に念仏」「猫に小判」というところか。いずれ、この人というものへの省察が欧米で自らの言葉で追求されてきたところが、世界を考える時、欧米の思想家を必然的に経由しなければならない理由だ。「哲学は神学の僕である」と言われる理由がそこにある。

そういう意味で、僕がいろいろ考えさせられるという理由から好きな思想家、作家は 宗教家ではスピノザ(すべてのしがらみからの解放)、作家では海外アルバート・カミュ(肉体と信仰、まさに「異邦人」という作品)、日本では大江健三郎(大脳皮質の訓練になるなぁこの人の作品は・・・、しかも実存主義サルトルの影響を受けているし)。そして、THE BOOK<旧新約聖書>(これはすべてを包括しているから)である。 僕の求めるものは、ず~うと変わらない。「神が自分の似姿に創造されし人とは何か」・・・無論、自分を含めて、である。  Ω