marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(619回)  誰もが故郷に対する宿題をもって生きている

2020-01-29 21:35:00 | 日記

◆僕が注目していた人物。留置所に入り、ましてや海外逃亡する以前から、僕らの町の日産にも来たし、さらには”ルネッサンス”という本まで出して、こんな企業に関する本を僕は買わないのだが、あの1954年生まれであり、僕も車が好きだからという訳で注目すべき人物と目論んでいたのであったが、おお、やはり というかサスペンスもどきの動きをされて、やはりやらかしてくれたという意味で、本を書きなさいと言っているわけです。K・ゴーンさんのこと。

◆彼の手法、個人の問題資産の方ではなく企業の方だけど、それはかくかくしかじかの成果を数字を上げて事前の目標を達成させたところなのだが、これはものつくりの世界で今ではどの会社でも採用している単純な手法なのであった。無駄はださず、効率よく、しかも労働者の不満をさほど起こすことなくという、つまり経費は安く、MAX機能でのものつくり。各現場に削減目標を提示してそれを達成せよと。現場の経験があり知っていて、しかも車を彼がすきだったこと。

◆僕の居た企業で最後に従事した場所は、体をとにかく動かす場所を希望したので、それは当然、インバウンドでもできそうなところ。70歳以上まで企業は働かせるようにと国は働きかけるだろうが、高齢者になってよほどの目標がなければ、同じ企業では高齢になり肉体労働とはみじめなものだと思う人も多くいるに違いない。現状組織では下層部の一ワーカーになりさがる。そうする人は、一つの哲学を持たないことにはやっていけない。

◆阿保な上司は現場を知らないで、ただの削減の目標などいうものだから、「お前は何、考えてんだよ!」と何度か言いたくもなるが、一応60歳がとらばーゆ推奨年齢であるから65歳まではただのワーカーに徹することが必要だったわけだ。老後の親の面倒も見ないといけなかったし、第一、自分の身体も考えねばということだった。デスクワーカーはもういらないので、といっても体を動かさないと脳溢血だろうよと自覚して避けたのだが。

◆僕には宿題がたくさんあって、それを今はこなしているというところなのである。仕事上で得た資格も生かせないこともなかったが、飛び回っているうちに家もかなりの老朽化という具合で・・・・それにしても身の回りや故郷の歴史や生まれた田舎のことも知らないことがいっぱいあったと考えさせられたのであった。

◆だれもが、故郷(魂の由来すると言っていい)に起因する宿題を持っている。肉体においては気づいていないが、そこに根付いて生きていたであろう歴史を持つ人々のDNAを引きずってもって生きている僕らなのであるから・・・Kは、故郷に逃避したのであった。  

 


世界のベストセラーを読む(618回)  少しばかり、神を伝えることの手段について思う(その2)

2020-01-29 12:34:28 | 日記

◆第一に僕らは、自分のことばであの世界のベストセラーを読めと言われたところで、歯がたたない。情観的には決して書かれていないそれは、まったく面白くない。思うに6年ほどでそれが了解しようなどということは実に不可能なことなのである。だからこそ、数え切れないほどのその主人公に関する本が巷にはあるという訳なのであった。「世界の終わりになって人々は多く知識を求めるであろう、そしてわたしの存在を知るようになるだろう」と神は言われる。

◆2019年 九州宣教フォーラムでインマヌエル綜合伝道団の竿代照夫牧師が次のように(◆)と述べたと言われた。それは、youtubeのハーベスト・タイムという聖書の学びのサイト内のことである。僕は仙台で彼の教会に一時、通っていたことがあった。今は東京の主都中央教会でその教団のトップになられたか。仙台教会はその後、田中敬康とう先生であられたが、仙台あたりの都市だとレベルの高い先生がやはり居られたなぁ、いずれもケニア伝道を経験された先生で、竿代先生(お兄様も東大出でその教団の上に立たれておられた)の祖父はあの柔道家の嘉納治五郎の弟子だったと聞いたことがある。教派的には、メソジスト、ウエスレーである。基本的な伝道をする(していた)、ビラ配りや、路傍での証、車での宣伝、開拓ではチンドン屋のような行列もあったしキリスト教が公認されてからまったくスタンダードな伝道をしていた。なぜ、そんなことまでするのか・・・それは彼が地上に来た意味を知り受け容れてほしいとの宣伝である。 世界のベストセラーが語っていることは事実だから、あるいは、それを受け容れなければ僕ら人類は絶望であるからである。僕らは、その後者の意味を今後世界の動きで体験していくであろう。

◆さて、その現代の宣教について ①教職、信徒の宣教協力 ②プロ、アマ意識(聖書ではそのようなことはないのだから)の撤廃、③役割の違いはあるが上下関係はない 今後の宣教は、そうならなければいけない、と。僕は思わずメモをしてしまった。この言葉には、現状の組織の”しがらみ”から抜けきれない、牧師への警告でもある。大いに賛成ではあるし時代の要求でもあると。現代は求めようと思えば、ネットでも大いに学べる、肉の次元でその知識としては・・・。

◆残されるは礼拝を第一にして、他者との交わり、群れとしての形成の中での学びであるが、言われた来た周知のキリスト教のイメージをまずは払しょく。あまりに手垢が付きすぎた。僕はそれらをブログで”しがらみ”と言ってきた。自分の今の言葉で、聖書をまずは読むことである。M・ルターは、まずは、「ヨハネによる福音書」と「ガラテヤ人への手紙」を読みなさいと奨めているのである。あぁ、僕はブログを始めた当初に戻った感がある。そうなのだ、「必要なのは多くはない、いや、ただひとつなのである」とイエスは言われたのである。それは、「永遠の命」に連なるものなのだ。・・・ Ω