ついに三回目、千秋楽ですと言っていいのか?どうか
沢田研二2021ソロ活動50周年LIVE「BALLADE」In 大阪フェスティバルホール。
大阪フェスには、私は2020年1月のお正月コンサート以来。
ホールに向かう階段の、宮殿の
ような赤い絨毯の色が懐かしい・・
フェスでは物販がありました(^-^)
名古屋のように、一つ席を空けて座りました。とりあえず、簡単に。
ジュリーは登場してから、まず水を飲む。・・水・・ところが、いつまで飲んでいるの?というくらい、長いあいだ水を飲んでいました。
時に咳き込む時も有りましたが、ジュリーの歌声は三度目でさらに力強くなっているように聞こえましたが、これはこの会場のせいだろうか?私は10列代の左端の席で、大阪フェスの音響が今までの中で、一番いい!と思いました。まさに、会場中のそこかしこから、音が私に向かって降りてくる感じ。音に包まれているという感覚でした。音が降り注ぐという、ジュリーが世界で一番好きな会場というとうり!
ところが、近い席なのに音が割れていたというJ友さんもいて、座れる位置によってかなり違うかしら?(^^; 私にとっては、フェスで素晴らしい音響で聞けたことは幸運です。ついでに、二階席のJ友さんから、二階からでもブラウスが透けてB地区が見えました、と報告を頂きましたが・・(^^ゞ 私は端のせいか、見えませんでした。
ようこそおいでくださいました。「まいど!」のジュリーに対して「おいど!」と声には出せず、ジュリーもシーっというゼスチャーで、唇に指をあてる。「おいど!」と大きな声で答えらえないのは、ほんとに残念やったわ〜
ジュリー『1年ぶりのステージ、いつ中止になるのか、ドキドキ。平日はダメとのことで、今日が平日で良かった』そうか、ジュリー自身が随分心配していたのね。
『今回のタイトルは、「緊急事態集会」にしようかと思った。新しいマネージャーに、これはマズイと言われた』
『喉は強かったのに、本当の意味で休養になった。リハの初日は咳ばかりだったけど、その日のうちに大丈夫となって、たいしたもんだ(拍手)初日には友人たちがいっぱいメールをくれて、馬並みの声帯と言ってくれた』と嬉しそう(^-^)
『こんな状態でよく来てくれました。家族から、お祖母ちゃん、お母さん、行ったらアカンと止められたでしょう。来てくれて嬉しい!』また、まいど!まいど!で拍手!!
「3年想いよ」では泣くような、ふりしぼるような声でした。ごくたまに、咳き込むこともありましたが、「追憶」の優雅なお辞儀にウットリ・・
「いくつかの場面」では、胸にこみ上げるものがあるのか、だんだんと涙声になって・・ジュリーと呼ばれるようになってから、他の誰よりも波乱万丈の人生を生きてきて、今までの多くの出来事が胸の内に去来しているのでしょう。1975年に、涙声で歌ったこの曲がアルバムに収録されてから、その後の人生の方が、ずーーっと長いのだものね。
その後のMCで、『今日はすごく気持ちが良かった、気持よくなったら、いっぱ泣いとった。』ジュリーの飾らない言葉と涙を見られて、私たちは幸せです。
『いつまでやれるんやろ、長くやりたいけど。70歳のころは88歳くらいまでやりたいと思っていたけど、70になったら、すごく体にこたえる。』そんな風には全然見えないのにね。オリンピックに対する苦言や、政権への言葉もあり。
『東京では100%でやって、沢田はうまいことやったという空気があった。週刊新潮から取材依頼があったが、どこにも取材は受けない。社長がサリー、僕が取締役、サリーと話してキャンセルするとお金が戻ってこない(^^;』
ウチウチの話を赤裸々?に語るジュリーですが、ジュリーがサリーと呼ぶのが、私にはキュンでしたわ〜私はサリーはサリーとしか呼ばないの。ジュリーもサリーだね、そりゃ、岸部さん一徳さんとは言い難いわね。
この後も、ナベプロとの映像著作権の話とか、分配の話とか、事務所に電話がかかってきたら、自分で声を変えて電話にでたとか、まさか向こうは沢田研二とは思ってないだろ、とか。
TV東京で「3秒でわかる名曲?」に映像が出るそうですが、サムライの映像も使ってほしい。勝手にしやがれ、だけとは思われたくないそうです。「今日は自分の飛沫が飛んだかも」まだまだ延々、お話が続きましたが、
またのちほど。
楽しかったです~(^-^)