まるぞう備忘録

無題のドキュメント

口論議論がなくなる理由。補足。

2017-09-18 11:06:13 | まるぞう経営学



今日も個人的な私的メモを備忘のために書いて置かせて頂きます。
陰陽の科学(陰陽道)では、プラスの因子とマイナスの因子は、必ず同量同時に生まれると教えてくれます。ですから私たちが人に対する行為も、必ず陰と陽の因子として同時に創られております。

ですからやはり、私が他者にした行為は、必ず同量だけ自分に返ってくる。これが陰陽の科学の一面であります。陰陽の科学とは、文字通り科学の法則でありますが、同時に人生の生き方の知恵でもあります。



宗教によっては、死後天国や地獄に行くという教えもありますし、次回生まれ変わる境遇で帳尻があうという教えもあります。

幸運な人は、生きている期間で、自分が他者に発したマイナスの帳尻を、昇華するチャンスに恵まれるかもしれませんが、不運な人は、自分の人生が終わって、もう取り返しのつかないタイムアウトのあと、自分が他人にしたマイナスの帳尻を合わせられるかもしれません。

ただ死後のことなんて、科学的に解明されていない要素ですので、どう感じるかは、非常に個人的な心の内面の話であります。ひょっとしたら死後の世界の帳尻なんてものはなく、人を傷つけたり泣かせても、この世の中で奪ったもの勝ちなのかもしれません。

ただ私達日本人の感性からは、多くの人は、自分の良心=お天道様だけは、決して騙すことはできない。そのように漠然ではありながら、自分の良心に従って生きようと思っている人が大多数ではないかと思います。




さて、人と口論議論をするときに、一番怖いのは、自分が誤解のまま相手を傷つけたりすることです。自分が知らないうちに、自分がつまらないプライドにひっかかっていたり、過去の傷を他の人に投射したりして、またも他人を攻撃し傷つけることであります。

だから他人と意見が異なっても、その場で論破することはしないということは、ためらわれるようになっていくかもしれません。うむ。そしてそれとは逆に、相手のそのカチンと来る意見こそ、今自分が、誰かに対して道を踏み外そうとしているよ。という警告の可能性を、自分の心の中で充分検証する必要があるそのような仮説も浮かびます。




しかし、この社会で生きていくということは、どうしても理不尽に自分にひどくあたって来る人もいるかもしれません。他の人はうまくやっているのに、私にだけに意地悪くきつくあたってくる人もいるかもしれません。

もしそれが、金銭のからむ契約に関することや、暴力や犯罪行為であるなら、当然折れることなく毅然と対応するべきであります。が、

もしそれが、家族や親しい友人そして同じ職場での人間関係の出来事であるならば、やはりそれは8割は自分に問題があるという警告である。私の人生の経験ではそうでありました。個人的な経験値です。普遍性はないことでありましょうが。

ただし2割については、相手側に問題がある。そういうこともあるでしょう。でもその時でも問題はないのでした。もし私自身が、自分自身に厳しく、相手に対しては謙虚で素直な態度を維持していれば。自分自身が素直な鏡でありますから。



それは陰陽の科学で導き出された結論であります。

もし本当に相手が非道い人であるならば、相手の発した贈り物は、私に届くことなく、ご本人に戻るからであります。鏡であれば。
私が自分自身に厳しく、相手に謙虚で素直であること。素直であるということは、鏡の純度が高いということであります。

相手に仕返ししてやろうと自分の心の中で思い出すと、自分の鏡の純度は一気に曇ります。ですからこの2割の鏡のことは、あまりこういう場所には書かない方がいいかもしれません。

相手を恨み、仕返ししてやりたい。という人ほど、鏡で贈り物を返すことはできにくくなります。自分でその相手からの「敵意」という贈り物を受け取って開けてしまうからです。

大切なのは、自分に厳しく、相手に謙虚で素直なことであることでありますが、そういう人は、もう「相手に仕返ししたい」とは思わないです。



陰陽の科学(陰陽道)は、プラスとマイナスが同じ量だけ同時に生まれることを私達に教えてくれます。その視点で人生自分に起きることを見ると、見えることと見えないことが見事に一致します。



 ありがとうございます。





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口論議論がなくなる理由。後編。

2017-09-17 12:06:18 | まるぞう経営学


「口論や議論になる時は、相手が正しい」
という仮説の裏には
「自分が正しい場合は、口論や議論にならない」
という事象が観察されます。

自分が正しい場合は、自分の主張を表現することで相手から共感が得られるからでありますが、そうならない場合は、それは自分が間違っている。私個人の経験ではその仮説が正しいと自分自身で自戒しています。

そもそも、私達は自分たちが思っているほどには、人と口論や議論をすることは少ないのであります。昨日はその事象を2つ考察してみました。

事象1:そもそも個人の好みや生き方の信条は、人それぞれ違っているものであるから、とやかく相手に干渉することではない。

事象2:相手が自分を否定するカチンと来る意見は、多分重要な警告が含まれているので、その場では反論せず2日は自分の中で熟成させる。



人が議論や口論をする可能性がる場合は、相手が自分を誤解していて、それを正そうとするケースがあるかもしれません。

「それはだから誤解だって」

「いや、違う、お前は昔からそういう奴だ」

こういうやり取りもあるかもしれません。
ただし私の経験では、人が自分を誤解する場合、その誤解を相手に解くのは期待することはまず出来ないということです。

もちろん事実だけは淡々と説明する必要はあります。何が起こっていたのかという事実は。しかしそれでも相手が自分を誤解しているのであれば、それはもう黙って甘んじて受けるのが一番早道であります。

そもそも人が私を誤解するということは、それまでの付き合いでいろいろ感情的に私に思うところがあったのが土壌としてあるのでした。
今回相手が「誤解している」というのは、単純に相手の不信感が一気に爆発した表面的なきっかけの事実一つに過ぎません。

人が誰かを誤解するというのは、本当はとても根が深い感情的な不信感の蓄積であります。

だから、事実を淡々と説明したのち、それでも相手が自分への誤解や不信感を持ち続けるのであれば、それはもう黙って真正面から受け切るのが、昇華に対する一番早い方法であります。私の経験則上。

事象3:相手が誤解している場合、1度だけ淡々と事実は述べことはあっても、言い訳はしない。相手の不信感は言い訳せず黙って受け切る。



言い訳をしないで黙って受け切るというのは、日本神話のスサノオの態度に似ているように思います。日本人が昔から潔しとしている生き方です。
そもそも誤解を受けて言い訳をしなければならないという点で、もうそれは自分が負けなのです。



私は若い頃は本当に傲慢で人からの信用を得られない人間でありました。
「他の人が言うなら信じられるが、まるぞうが言うことなら同じ内容でも信じられない」
サラリーマン時代は、何人もの上司にそう言われておりました。

大会社のサラリーマンを辞め、自分で小さな会社を経営するに至り、人から信用されないことは、本当に致命的であることが身に染みました。そしてどうやれば、人から信用を受けられるか、生まれて初めて努力しました。そして10年たち、ようやく他の人と同じくらいには、信用を頂けるぐらいにはもって行けるようになったでしょうか。

人から信用を受ける方針として、

1,時間は必ず守る
2,きちんとした服装をする

まず私が全くできていないこの2点を直すようにしました。
時間を守らないというのはもう社会人として言語道断でありますが、かつての私は、遅刻しても当然という意識で仕事していました。
また服装についても高い服である必要はありませんが、人から信用を受けるという服装があるのです。
社外の人と会う時は、紺系のスーツと白系のワイシャツ落ち着いたネクタイ。そして靴だけはきちんと磨く。こんなことだ重要だなんて気がつくのに、随分遠回りしました。
多分忠告してくれた人はいたと思いますが、傲慢な私は、自分の言い訳だけ主張して、聞く耳はもたなかったことでしょう。

3,人の悪口は言わない
4,自分の言い訳はしない

これは自分にとっては、厳しい掟でありますが、自分が人から信用を失う一番の原因が、どうもこの2つであるらしいのです。
会社の資金繰りのため、結局回り回って人から信用されるためには、どうしても必要な条件でありました。

5,関係者に一言、仁義をきる

私はホウレンソウ(報告連絡相談)が全く苦手でありました。しかしそれはやはり私がバカチンであった証拠であります。
最終的にその人が信頼されるかどうかの決めては、きちんと周囲の人に事前に筋を通しておくということでした。

これは最悪事態を想定し事前に備える。という考え方と同じです。関係している人には、手を抜かず、事前に一言。この一言だけという行為が、本当に将来のリスクをぐっと激減させてくれます。

こんなアタリマエのことがわかるのに、私は本当にバカチンの回り道をずっとしてきておりました。

事象4:自分が正しい場合は口論や議論にならない。ためには日頃から自分が信頼される人間になろうとする努力が土台。



さて「議論になる時は自分が間違っている」という仮説について、個人的な人生論の考察をしてきましたが、一つだけ重要なことがあります。

それは、会社の事業ビジネスに関わることと、犯罪や暴力に関係するこについては、これらは必ずしも当てはまらないということです。

ビジネスの契約上では、誤解されたまま黙っていることが美徳とはなりません。
また暴力者や犯罪者相手では、きちんと身を守る努力が何より優先されます。
1,暴力や犯罪に巻き込まれない事前の想定。
2,それでも、そばに暴力や犯罪近づいた場合は、逃げる。距離を置く。
3,それでも、やむを得なく暴力や犯罪に巻き込まれたら、警察や法律の専門家にすぐ相談する。

彼らに対しては、議論や口論の美学は通じません。


事象5:ビジネスや商売の契約についてはきちんとビジネスライクに筋を通すこと。暴力や犯罪については、警察や法律専門家に相談すること。



事象1〜4のような備忘メモがとりあえず残せるということは、私のようなバカチンでありましても、人生の回り道はそれなりに意味があったのかもしれません。やはり人生とは捨てたものではありません。うむ。



 ありがとうございます。





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口論議論がなくなる理由。前編。

2017-09-16 14:01:23 | まるぞう経営学


一昨日書いた記事について、追補考察であります。ただし追補内容につきましては、私の本当に個人的な感じ方であり、多くの人に対する普遍性を持つものではありませんので、ご了承ください。


前回記載したのは
・相手と意見が違った時、「相手が正しい。間違っているのは自分だ。」
という実験についてでありました。


この表現について、「自分を抑える」というように取られて方がいらっしゃったかもしれません。しかし実際はそのようなことはありません。

自分が正しいのに、それを抑えて相手が正しい。と意見を曲げるという意味ではないのです。

誤解を生む表現かもしれませんが、敢えて言うのであれば、「自分が正しい場合は、口論にはならない」ということであります。
自分が思っていること、感じていること、どうあるべきと思うか。これらを相手に伝えると、相手は共感してくれます。

もし、私の意見に共感してもらえることなく、それが「議論や口論」になるのであれば、それは「私が間違っており、相手が正しい」ということであります。



では会話のシミュレーション。とあるファミレスにて。
「お、まるぞう、何頼むの」
「う〜ん。いつものようにトマトのパスタかな。」
「何だいそれ、ここならやはり目玉焼きハンバーグだろ。お前
わかってねーな。」

さてこのようなやりとりの場合、口論に発展するでしょうか。それぞれの好みについてです。人はそれぞれの人生でそれぞれの主役であります。ですからモノの好みや価値判断は人それぞれであります。

ですから私は、個人的には目玉焼きハンバーグは頼まないと思いますが、別に相手に「トマトパスタの素晴らしさ」を説得するつもりもないです。それぞれが好きなものを頼めばいいのです。

現象1:個人の好みや生き方は人それぞれなので、それについて相手を説得することはありません。

多くの大人は、政治と宗教については話題にしないことがエチケットであることを知っています。これらの話題は、人それぞれの生き方の問題であるため、相手に干渉しないことが大切です。
逆に相手がこちらに干渉してきた場合は、多くの大人は「さあ、どうでしょう。」「う〜ん。あまり興味ないかな。」などサラリと受け流すことでしょう。

南の窓から入った風が、そのまま北の窓から出ていくように、部屋の中に何もとどまらせず、引っかかることなく外に出ていきます。



次のシミュレーションです。相手は更につっかかってくる場合もあります。

「おまえ、何パスタなんか頼んでんだよ。ほんとにお前味わかんね〜やつだな。」

人によってはこのように否定から入ることもあるかもしれません。
しかし人から否定される時は、だいたいの場合貴重なメッセージです。とくに心の中でカチンと来るような場合は、「それは重要だよん」というしるしであります。

今までの私の経験では、私というのは非常に傲慢になる性質を持っているので、それを常に補正するようにする必要があります。しかし自分自身の姿というのは、本当に最後までわからないのです。
そこで頼りになるのが、カチンと来る相手からの否定の言葉です。その言葉の底流には、ほとんどの場合、一番自分が認めたくない、しかし一番自分が認めなければならない警告が含まれています。

若い頃の私は、つまらないプライドがありましたので、カチンという相手の言葉の裏に隠された警告を見破ることができませんでした。
しかしさすがにいろいろな失敗経験を積み重ねることで、カチンという相手の言葉には180度真逆の警告が含まれていることを知ったのでした。

そのカチンの警告は、その場すぐには意味がわからないこともあります。ですからその場合は、「う〜む。そうかなあ。」という返事だけしておき反論することはありません。2日ほどは熟成する期間が必要です。

その期間の中で、その警告の意味がわかることもあります。でありますから、その場で反論することはなくなりました。

現象2:相手が自分を否定しカチンと来る言葉は、貴重な警告なのでその場では反論することはありません。警告の内容を理解するには2日ほどその警告を熟成する必要があります。



ちなみに「味がわかんね〜やつだな」と言われた時の私の気持ちとしては、「自分は人並みの舌しかないので、そう思われても当然かもね。でも今日はパスタの気分だからな〜」と思うかもしれませんし、「そんなに目玉焼きハンバーグが美味しいというのなら、騙された気持ちでトライしてみようかな。食べてみようかな」と思うかもしれません。
あるいは2日のうちに、相手は「俺のこともっと興味をもって褒めてよ」という意味だったのかもしれないな〜。と思い至るかもしれません。

いずれにせよ、個人を否定されることはあるでしょうが、特に相手に反論することはないです。この現象に関しても反論は何の意味を持たないからです。


あと3つほどの現象があるのですが、つづきは明日考察してみたいと思います。



 ありがとうございます。





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真逆が真理とするならば。

2017-09-14 10:46:50 | まるぞう経営学


多分私個人にとって大切なことと思われるが、すぐに忘れてしまうであろうための、私的備忘メモです。


陰陽の科学とは、ご存知のように「陰と陽は同時に出現する。片方は表面事象として。片方は潜在因子として。」という宇宙の波動の性質が基本となっております。

私達が日常の生活で表面に見えることの正反対の因子が裏側の世界で同時に同量だけ生まれているということです。うむ。

だから「成功する」という表面の事象の裏には、それと同時に「衰退する」という因子が同量だけ生まれているわけです。

従って先祖代々の大金持ちの家系の家訓は「質素倹約」が全世界共通しているのも、彼らがこの「陰陽の科学(陰陽道)」を経験的に知っていたからであろうと思います。

成功するのと同量だけ、自分が「受け取らないまたは手放す」ことを意識的にすることで、衰退の因子を昇華している。という意味になります。

そう。「陰陽の科学(陰陽道)」を経験で知っている人は賢者と呼ばれてしかるべきです。世の中には無名の賢者で溢れています。
謙虚で物腰の柔らかな人は、高い確率でこの「無名の賢者」であろうと思います。うむ。


その「無名の賢者」は、日の当たらない一見貧乏くじのような仕事こそ、自分のマイナスの因子を昇華できる機会であることを、感覚的に知っているのでした。

そういう環境において、直接人から賞賛されることはなくても、人に誠意を持って対応することが、そのままマイナス因子の昇華またはプラス因子の蓄積になっていることを、感覚で知っております。

日本には「お天道様が見ている」「お陰様で」という美しい日本語がありますが、この言葉を使っている人の多くは、感覚的に「陰陽道」を体得している「無名の賢者」なのでありましょう。

ただ暴力行為は犯罪行為については、想定し、注意深く避け、自分や家族を守ることは一番大切なことです。そういう暴力や犯罪を受けながら耐え忍ぶことは、マイナス因子の昇華ではありません。



であれば、私が考えることも全部「陰と陽」正反対が正しい。ということでもあります。
毎日仕事でも家庭でもいろいろな人と意見を戦わせます。どんな時でも私は自分自身が正しいと思います。従って、相手を論破することは当然と思っておりました。

しかし「陰と陽」では全てが逆であります。うむ。
私の思う「正論」こそが「間違い」なのかもしれません。相手の「正論」こそが正しいのかもしれません。



相手と意見が違った時、「相手が正しい。間違っているのは自分だ。」そのように考える実験をしてみました。

その結果、その仮説は正しかったのでした。つまり「相手と意見が違った時は、間違っているのはいつも自分の方だ」のは人生の真理なのでした。
それは仕事上でも家庭でもそうでした。うむ。それは50年以上生きて初めて知った真理でした。



 ありがとうございます。





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