「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「妙喜庵」 (みょうきあん)

2008年09月16日 15時26分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 妙喜庵は、臨済宗東福寺派に属し、室町時代の明応年間(1492~1501)に建立され、開山は、東福寺の開山聖一国師法嗣である春嶽士芳禅師で、もと連歌の祖であった山崎宗鑑の屋敷を、宗鑑が晩年に四国に移ったあとを寺にしたと伝えられている。寺号山号は、開山春嶽禅師が名付けたもので、”妙喜庵”という庵号は宋の大慧禅師の庵号からつけられたという。

 なかでも必見は茶室で、待庵(たいあん)と称されている。天正10年(1582)羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を討つために構えた山崎の地の陣中に、千利休に命じて二畳隅炉の茶室を作らせた。その後に、解体されて妙喜庵に移されたと伝わる。
 待庵は、わが国最古の茶室建造物で、千利休の現存する遺構として唯一の茶室。藁すさ(わらすさ)を見せる荒壁仕上げ、抽象画にも似せた窓配置で、入り隅(いりすみ)の柱を隠し、天井まで壁で塗り込めた室床(むろどこ)などによって二畳という狭さを感じさせない。
 連子窓、下地窓の配置、やや広い躙口(にじりぐち)、隅炉などと共に利休の特徴が随所に見られる。茶室に窓が付けられたのは待庵が最初といわれ、国宝に指定されている三棟の茶室(犬山の如庵、大徳寺の密庵)のうちの一つとされている。

 山崎宗鑑は近江源氏佐々木義清の子孫で、後土御門天皇の寛正6年(1466)に滋賀県常盤村に生まれ名を弥三郎範重といい、足利九代将軍義尚の祐筆となった。義尚の死後、髪を切って尼崎に隠居したが、一休禅師の教えを受けその禅風を伝え、明応年間に山崎に隠居し妙喜庵に籠った。それから山崎を姓として連歌にふけり、油を荷って京に出て終日売り歩き帰庵するのを常としていた。

 「宵毎に都を出づる油売り ふけてのみ見る山崎の月」

 後世宗鑑の油筒を模して花入れとした“油筒の花入れ”は妙喜庵名物の一つとされている。晩年宗鑑は、この庵を春嶽禅師に譲り、西国に旅して讃岐の地に一夜庵を造って住んだとのこと。
 縁側にある扁額は東福寺の南宗流という書道の開祖の筆で室町時代のもので、書院は京都妙心寺の霊雲院書院を模したものとも伝えられてる。仏壇正面には聖観音を祀り、左手には千利休像を安置している。

 明月堂は山崎宗鑑の住居を移したと伝えられるが、現在のものは後世、建て替えられたもので、書院の正面に石清水八幡宮がある男山山麓があり、その頂より月が上るのが眺められたため明月堂という名がつけられたという。今では残念ながら、周りに高い建物が立ち並び昔のような景観は望むべくもない。

 庭前に一株の老松があり、秀吉が通ったとき衣の袖が触れたということから「手摺の松」の名がつけられた。
 何でも初代の松が江戸時代に枯死し、表千家六代覚々斉、7代如心斉、裏千家8代又玄斉がこの枝より作った老松の茶杓は当庵の名物となっている。「都林泉名勝図」の松は初代のものと思われますが、現存の松は、親松より生えたもので3代目といわれている。

 「松老いぬ 紙子の袖も すれたらめ」嘯山(しょうざん)

JR山崎駅を出ると駅前のロータリーを隔ててすぐそばにある。
 見学には、往復ハガキで1ヶ月以上前に申し込みが必要。見学時間は向こうの指定する時間に絶対的に合わせなければならない。見学時には「志納金千円」(拝観料)が必要、茶室は中に入ることはできず、にじり口から内部を眺めるのみで写真撮影も禁止、高校生以下は拝観できない。詳しくは妙喜禅庵ホームページ「拝観申し込み」参照。禅庵の入口には、「予約のない方は拝観謝絶」の立て札が立っている。
電話:075(956)0103

 所在地:京都府乙訓郡大山崎町字大山崎子字竜光56。
 交通:JR京都線山崎駅から徒歩すぐ、阪急電鉄京都線大山崎駅から徒歩。


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