「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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 「本法寺」(ほんぽうじ)

2009年05月14日 07時34分01秒 | 古都逍遥「京都篇」
 日蓮宗京都十六本山の一つ叡昌山本法寺は、法華経の行者であった日親(にっしん)上人によって永享8年(1436)、東洞院綾小路(四条烏丸の東南辺り)に建立されたのが始まり。本尊は十界曼荼羅。
 日親は、永享11年(1439)のある日、三代将軍足利義教(よしのり)の屋敷へ訪ね、将軍義満に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と法華経受持を説き諌暁(かんぎょう/諫め諭す)を図った。この行動に無礼だと怒り諌暁を禁止するが、それでも日親は諦めることなく、翌年、諌暁書「立正治国論」を著したことから幕府の逆鱗に触れ、寺を焼かれ、投獄され、火あぶり・鞭打ち・焼き鍋を頭に被せるのどの拷問を受け、改宗を迫られたが応じることは無かった。このことから、後に“鍋かぶり日親”と称されている。

 この後、嘉吉元年(1441)、赤松満祐(あかまつみつすけ)の謀反で義教が殺されたことで日親は赦免される。出獄後、獄中で知り合った本阿弥清信(法名本光)の絶大な帰依を受け、本法寺を再興する。この縁により、後に本阿弥家の菩提寺となる。

 天文5年(1536)当寺は、「天文法華の乱」で他の法華宗寺院と同じく、一時期和泉(大阪)の堺へ避難するが、法華(日蓮)宗本山の帰洛が許され一条堀川(現晴明神社あたり)に再建。更に天正15年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第造営にあたり、強制的に替地として与えられた現在地へ移転している。このとき、移転工事を監督したのが本阿弥光悦。その後の天明八年の大火により堂宇の殆どを焼失したが、徐々に再建され現在の堂宇となっている。

 当寺の見所は、本阿弥光悦作とされる枯山水庭園「三つ巴の庭」であろう。
 書院の東側を主体に南側へかぎ型になっており、東南の隅の枯れ滝石組みが美観で、しばし目をとめる。書院東側の縁先近くの石囲いの蓮池も特徴的な景観で静けさを漂わせている。本堂の脇には光悦手植えの松もある。

 本阿弥家は、代々刀剣の鑑定や研磨を業とする家系であった。本阿弥清信(清延とも)の孫が光悦で、光悦(1558~1637)は書画や工芸に秀でた芸術家として知られていた。徳川家康から鷹峰一帯の地を寄進され、広大な芸術村を造営している。現在も光悦芸術村として観光名所にもなっている。また先祖の菩提をとむらう光悦寺も建立している。
 墓地には、本阿弥家一族や長谷川等伯らの墓がある。また、展示館では長谷川等伯筆による総丈約10mの「佛涅槃図」の複製品(秋には本物を公開)など絵画10点のほか、本阿弥光悦筆の法華題目抄など書2点の重要文化財がある。

 当寺の表門が面する小川通には、茶道の表千家・不審菴、裏千家・今日庵や茶道具・茶器を売る店が並び、侘び寂びの古都文化に身を包むことができる。表千家は千利休(1522~91)の子の少庵が千家再興を許されたとき、利休の不審菴をこの地へ移建し「表千家」とした。表門は紀州家からの譲り受けたのもで、内側は国指定の名勝庭園となっている。この表千家の北側(本法寺表門の向正面になる)に在るのが「裏千家」。千少庵の子の宗旦が表千家の裏に隠居所を立てたのが始まり。一間腕木門の内側は国指定の名勝庭園である。

 小川通をさらに南へ徒歩4~5分程の所、武者小路通東入るに武者小路千家・官休庵がある。
 武者小路千家は三千家のひとつで、千利休の孫、一翁宗守(いちおうそうしゅ)の子孫が受け継ぐ家元。寛文7年(1667)、宗守が仕えていた高松藩を辞したとき造られたので官休庵とも言われている。

 所在地:京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617。
 交通:京都駅前から市バス⑨西賀茂車庫行き、「堀川寺之内」下車徒歩約1分、京都市営地下鉄烏丸線鞍馬口駅徒歩15分。
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