それから数ヶ月後、 フィリアの耳に、船の話が入って来た。
停泊していても、船員が数人、船に留まっているというのだ。
フィリアはナイフを握ったまま、その場に座り込んだ。
マゼラは気付かぬふりをして、調理を続けた。
それからフィリアは、その船が停泊している時に、港近くの用事を頼まれることが多くなった。
フィリアはその度に目を凝らし、耳を澄ましたが、何も感じ取れなかった。
ただ、未だに船員が船に残っていると言う噂にすがり付くように、二年近い歳月が流れた。
そして又、フィリアが何も見聞き出来ずに帰った時、マゼラが唐突に言った。
「アムラントの話を知っているか?」
「知りません。どんな話なんですか?」
「遠い国の神話でね。昔、アムラントという男の子がいた。あまりに美しかったので、黄泉の女王に連れ去られてしまったんだ。アムラントの母親は悲しみのあまり、死後の世界に行ってしまう。そこは美しく、光溢れる場所で、皆穏やかに過ごしていたんだ。そして女王に大切にされ、一際輝いているアムラントに出会う。アムラントは、ここでの暮らしは満ち足りているから安心するようにと言って、地上に母を送り届けるんだ」
フィリアは驚いてマゼラを見た。
マゼラは気付いていたのだ。
「俺は本が好きなんだ。色んな話を知っている」
マゼラはそう言って、横を向いた。
その四ヶ月後、港近くの魚屋に行く途中で、フィリアは子供の笑い声を聞いた。
周りを見ても子供はいない。
間違いない。
あの船の上からだ。
フィリアは目を皿のようにして見つめた。
けれど人の姿は見えない。
陸からは物陰になる場所で、遊んでいるに違いなかった。
フレイアはあそこにいる。
サンタビリアとマゼラが言った通りだ。
安全な場所で、大切にされ、幸福に、守られている。
この手では出来ないことだった。
こうしてフレイアの無事を確かめられる。
それだけで幸せだ。
涙が出るのは幸せだからだ。
そして海が光るからだと、フィリア自分に言い聞かせた。
それから二年、アダタイ国は三つに分かれた。
王の崩御をきっかけに、王子達の不仲が形になったのだ。
もう、人質も身代わりも不要だ。
他の事情で何が起こるか分からないが、一先ず安心だ。
そして、この事情に気付いているならひょっとして。
フィリアの予想は当たった。
二月後、フィリアは店の掃除をしていた。
地道に教えてくれたマゼラのお陰で、簡単な料理なら、もう任せてもらっている。
掃除までする必要は無いと、店主もマゼラも言ってくれるが、感謝の気持ちだ。
最後の卓を拭いていた時、開け放した扉から、マゼラが飛び込んで来た。
「ハミさん!すぐに出て!左に行って先の角を左だ!」
「はい?」
フィリアが無意識に首を傾げた。
「スカーフをしっかり被り直して、急いで、でも、何気ないふりをして」
フィリアは目を見開いた。
「はいっ。有難うございます!」
言うより早く、道に飛び出す。
角を曲がると同時に、足を緩めた。
目に入ったのは、四人の男と子供の姿だった。
真っ赤な巻き毛を三つ編みにし、肩車されて蛸の顔真似をしている。
肩車しているのは、あの船長だった。
前の男は、後ろ向きで歩いている。
横の男達は、愉しげに笑っている。
にらめっこをしているらしい。
子供が堪えきれずに吹き出した。
大笑いをして体を反らし、限度を越えて逆さになる。
間違いない。
記憶の中にある、妹の顔とそっくりだ。
それにあの、見事な赤毛。
擦れ違う時に、もう一度顔を見る。
間違いない。
子供は、横の男に抱き取られ、今度は尻取りを始めた。
目をくりくりさせながら、元気に繋げる。
子供を抱いている男は、子供の巻き毛が頬に触り、くすぐったそうだ。
皆上機嫌で、のんびりと歩いている。
太陽のようなその子は『ルー』、時々『ルージュサン』と呼ばれていた。
フィリアは気力を振り絞り、そのまま通り過ぎた。
その後は、船に船員が留まることはなくなった。
フィリアはその船が入ったと聞く度に、胸を高鳴らせて街中を歩き回った。
そしてある日、フィリアが働く食堂に、一行が入って来た。
フィリアは思わず、仕切りの陰に身を隠した。
体がカタカタと震えている。
店主が注文を取り、マゼラがいくつかの料理をフィリアに振った。
フィリアは深く息を吸い、長く息を吐いた。
それでも、手の震えが止まらない。
腹から温かい光が、沸き上がるようだ。
果物の皮を剥きながら、フィリアは幸福に包まれていた。
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