ギャンが台所の異変に気付いたのは、ただいまのハグを終えた後だった。
なにせ今日は遠出して、朝からずっとサキシアに会っていなかったのだ。
「ねえ、サキシア。これは何?」
「何って、樽よ」
「うん。それは分かるけど」
広い台所は、僅かな作業スペースを残して、積み重ねられた樽に
占拠されていたのだ。
「昼間、お義母さんが業者さんと届けてくれたのよ。責任をもって売りさばくから、一日一樽位、漬け続けるようにって」
「大丈夫なの?」
樽の数に圧倒されて、ギャンが確認した。
「問題ないわ。納屋にも沢山詰め込んだし、足りなくなれば、すぐに運んでくれるそうよ」
「・・・納屋にもあるんだね」
「そうなの。大きな納屋で良かったわ」
ギャンは何かを諦めた。
「あと、お義母さんが馬車を御してるのを見て、教えて下さいってお願いしたら、ギャンが上手だって言われたのよ。今度教えてね」
サキシアは笑顔だ。
「うん。分かった」
ギャンも笑顔になった。
アルムは有言実行だった。
小分けにした漬け物に『母の旨味』と銘打って仕立て屋の隅に置き、服のおまけとして試食に配ったのだ。
評判は広まって、すぐに一日一樽では足りなくなった。
布も注文を捌ききれない状態で、夏には工場の増築を始めた。
食品加工場と従業員用食堂、直売所も新設し、そちらにも人を雇う計画だ。
器具もあらかた購入したが、アイロンや釜など幾つかは、見当を付けるだけにすることを、サキシアが勧めた。
「うん。分かった。でも何で?」
ギャンが粥を掬う匙を止めた。
「私というか、皆の予想な」
―バンッ―
その時突然、ファナがテーブルを強く叩いた。
その弾みで後ろに傾き、椅子の下にずり落ちそうになる。
サキシアがとっさに横から抱き止めた。
「サキシアッ!ファナッ!」
ギャンが椅子を蹴倒して駆け寄った。
ファナが大声で泣き出す。
『ファナ!ファナ!』
ぺルルが鳴く。
『サキシア?サキシア?』
パールはサキシアの心配だ。
「大丈夫よ。驚いただけ」
サキシアの顔は真っ青だ。
ギャンが屈んで、ファナを抱き取る。
「君は?サキシア。頭と肘を打ったろ?肩は?膝は?どこを捻った?」
「大したことないわ。ファナが無事で良かった」
「君が無事ならもっと良かったのに」
ギャンがサキシアの顔や腕に、視線を走らせる。
「そうね。とにかくもう二度と、こんな目には会わせないわ」
サキシアがファナを見つめながら、ゆっくりと立ち上がる。
「座ってて。今、軟膏と湿布を持ってくるからね」
ギャンはファナを抱えたまま、戸棚に向かった。
そしてそのまま、購入を見合わせる理由を聞きそびれた。
「そうなんです。そちらの工場が始まってから、商売あがったりで。土地と建物は返すんですが、設備はうちのなんで」
布染め屋の主、ダフが椅子から身を乗り出した。
「そちらでも工場を大きくするんだ、好都合でしょう?元々お嫁さんに染めを教えてあげたのはうちですよね。工員達に未払いの賃金だけでも払ってやりたいんです」
ダフの語気は強い。
「そうですか。でも工場は息子に任せてあるんで、話し合ってみないと」
バスは手を組み、即答を避けた。
サキシア考案の染め布を、約束を破って他所に売り、問い質すと開き直った相手だ。
それでもギャンが契約を切ると言い出した時、最初は反対した。
先々代からの付き合いだからだ。
けれど上手に出られてまで、助ける筋合いは無いのだ。
「まあ、宜しくお願いしますよ」
薄笑いを浮かべるダフを眺めて、この男の本性に気付かなかった自分を、バスは不覚に思った。
ギャンは頑張った。
全ての備品を売り付けようとするのを牽制し、高値で押し切ろうとされても相場まで値切り、代金を賃金に充てるという言質を盾に、代金と賃金の支払いを、同時に行うことを確約させたのだ。
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