聞き覚えのある声がして、 フィリアはカウンターの陰から入り口を覗き見た。
例の船の一行だ。
けれどフレイア、ルージュサンがいない。
店主も気付き、注文を取るついでの様に聞いた。
「今日は、あの娘は一緒じゃないんですか?」
「ルージュサンか。あの娘は養女に出した」
船長の目元が僅かに陰った。
「貴族の貿易商に見込まれたんだ。あの娘が跡を取るんだから、直に耳に入るだろう。伸びるぞ、ガーラント貿易は」
では、どこに行けば良いのだろう。
近過ぎても遠すぎても、いけない。
考えを巡らすフィリアを、マゼラが横目で見ていた。
その日、暇をみて、マゼラが店主を裏口に呼び出した。
「ルージュサンの近くに行くんだろう?ハミにはもう、求婚したのか?」
店主はそう言って、ウィンクをした。
後片付けを終えて帰ろうとした時、フィリアは、マゼラに呼び止められた。
「俺の趣味は本で、それを売れば少しはまとまった金になる」
「そうなんですか」
フィリアは戸惑った。
話の着地点が何処なのか、さっぱり見当がつかない。
今日は色々と考えたいというのに。
「どこかで飯屋か宿屋を始めるのもいいと思っている」
「ここを辞められるんですか?」
自分が辞めるつもりだと気付いて、店の為に時期をずらせと言うつもりだろうか。
「一緒に行ってくれないか?働いてくれるだけでもいいんだが、出来れば妻として。勿論君の好きな場所へ」
フィリアの仰天して、マゼラを見た。
一体何を言っているのだろうか、この人は。
「妻、ですか」
「旦那がいるのか?」
「そういえば、そんな話をしたことさえありません。なのに、どうして急にそんなこと」
「十年以上隣にいたんだ。それで十分じゃないか?」
十年以上。
そう。十年以上だ。
この人はいつも、見守っていてくれた。
自分もいつからかずっと、この人の温もりを感じていた。
激しさは無いけれど、染み入るように。
そして今、私と一緒に娘を追ってくれようとしている。
ずっと見習ってきた、無骨なようで器用なこの人の手。
この手を、取って良いのだろうか。
それならば先ず、話さなければならない。
覚悟を決めて。
「私は・・・」
フィリアは宮殿に入る少し前からの経緯を、かいつまんで話した。
マゼラは少し驚いたが、たじろぐ様子は少しも見せなかった。
そして。
「大変だったんだな」
と、右手を差し出し、ためらった。
フィリアはマゼラの右手を両手で包んだ。
深い安堵。
その奥に微かなときめき。
この人は、何も知らぬまま、私を丸ごと、愛してくれていたのだ。
マゼラが頬を、赤く染めた。
「俺は、君を喜ばせたり、嬉しくさせたりしたいんだよ。いつでも。本当は」
マゼラは耳迄赤くした。
仄かなときめきの行く方を感じて、フィリアは自分を愛しく思った。
「品書きが、前と大分違うな。料理人が変わったのか?」
二年ぶりに訪れた船長に、店主が答える。
「前、来てくださってすぐに、二人とも辞めたんです」
「夫婦だったのか?」
「夫婦になって、辞めていきました」
「ここで何年働いていたの?」
「男は十五年、女は十一年ってところです」
十一年?。
船長はふいに、一度すれ違った女を思い出した。
少し戸惑うように通り過ぎた、スカーフ越しでも美しいと解る、若い女。
「どんな女だ?名前は?どこから来た?」
船長が矢継ぎ早に問いただす。
「ジャナから来た美人で、髪は銀色でした。今の年は三十過ぎ。ここではハミと名乗ってました。きっと、旦那が思っている女です」
店主の言葉に淀みは無かった。
決めていたのだ。
もしも船長が気付いたら、教えてやろうと。
それが彼女の為になることを信じて。
ガーラント子爵は、船長の突然の訪問に驚き、その用件に更に驚いた。
ルージュサンの母親が見つかったというのだ。
預かって来たという手紙には、感謝の言葉と共に、ルージュサンの出自と、これまでの経緯が記してあった。
万一にも、自分を通じてルージュサンに危害が及ぶことがないよう、会わないのは勿論、手紙もこれきりにしたいと。
ルージュサンへの手紙には更に、謝罪の言葉が連ねてあった。
「私はあの店で、母の料理を食べていたのですね」
子爵とルージュサンは、感謝に溢れた返信を、船長に託した。
ラウルが生まれて三年が経ち、ダリアは二人目の男児に恵まれていた。
ダリアは自分の不義を忘れたことは無かったが、その怯えを圧し殺しながらも、重ねていった時間に、導かれたのだ。
その子はバシューと名付けられた。
同じ年、王の第一夫人が亡くなった。
デザントは実母を失くした悲しみも癒えぬうち、自分の第二夫人と第三夫人に、里へ帰ることを懇願された。
デザントはそれを許し、改めて自分の非礼を詫びた。
やがて王が崩御し、デザントが位を継いだ。
新たに王妃を迎えるように進言した者もいたが、デザントはダリアをその座に据えた。
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