東京はいい天気だ。朝は寒かった。新型コロナは日本でも、世界でも猛威を振るってる。収束なんていつなのだ。神経を使うので、疲れる。コロナ以上に注目を浴びてるニュースがある。今日は、山ユリ園で19人殺害、26人に重傷を負わせた植松聖の地裁判決が出る日だ。検察は死刑を求刑している。私は当然の求刑だと思う。植松も死刑判決を望んでる。私は、死刑廃止論者だが、植松に関しては死刑以外の判決はないと思ってる。いまだ、障がい者は生きるに値しないから、死んだほうがいいと発言している。植松の極端な優生思想はどこから来ているのだ。日本にもユダヤ人を虐殺したヒットラーのような人間がいるのだ。大麻使用による妄想が殺人の原因とか言われてるが、そうではない。確信犯なのだ。人を人と思わない人間性は、彼の生活環境から来るのかもしれない。どんな子供時代、青年時代をすごしたのか。異常な人間ではなかったと、言われてるが見えないだけなのかしれない。子供はかなり残虐な事をする。昆虫の羽をむしり取ったり、子供間のいじめも壮絶なものがある。その延長に植松の残虐性はあるのか。彼の生い立ちを追及するより、やった事に対しての責任を取らなければいけない。抵抗できない障がい者を19人も短時間で殺したのだ。襲われた障がい者の恐怖は想像を超える。日本には、植松の犯行を支持する人間すらいる。ヘイトスピーチが横行する日本では、驚く事ではない。日本、すごい国の実態は、人間性のかけらも感じさせない人間が多くいるのだ。最近の日本人は草食化しておとなしくなったと言われるが、残虐非道の事件は次から次と起こってる。京都アニメーション放火殺人事件では、36人が殺された。36人もの人間が火と煙の壮絶地獄の中で死んでいったのだ。被害者は若い人が多い。犯人も若い人間だ。被害、明日は我が身なのだ。いや、あなたが加害者になる可能性すらある。人間には悪魔の顔とキリストの顔の両面がある。罪を犯さぬ人間などいないのだ。人間性の本質は悪と罪だ。誰にも植松のような残虐性はあるのだ。道徳があり、法があるから人間性のモラル崩壊が防げてるのだ。法があっても、第二、第三の植松は出てくる。悲しい現実だ。植松には死刑判決だ。それ以外ない。