例えば、『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と述べる者がいたとしよう。
その者が『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と主張してその後にある主張をしたとしよう。
そして、その主張には賛同できるものであったとしよう。
その場合、『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と述べる者を支持すべきか?
私は『否』と答える。
例え後に続く主張に賛同できるものであったとしても、そのやり方は悪手でしかない。
根拠のない数字を出して世間を脅して世論を操作するやり口を許すべきではない。
それを許せば、同じやり口をする者が大量発生してしまう。
その中には悪意をもって同じやり口を行う者がいるかもしれないのだ。
経済学や社会学の専門家達はこのやり口で政府の中枢に潜り込もうとする者に慣れている。
それ故に明らかに根拠のない数字が出てくると、当然の如く攻撃する。
「その数字の根拠は何か?」と。
これは当たり前の行為でしかない。
そもそも、経済学や社会学は実験が出来ないので反証が難しい。
それ故に論の根拠は重要になってくる。
勿論、取るに足らない場であるならば、態々攻撃したりはしない。
しかし、根拠の薄い数字を使って正規の手続きをすっ飛ばして政府の意思決定の中枢に潜り込もうとするならば、経済学者や社会学者は攻撃をする。
意図や志や有能であるかどうかは関係ない。
根拠のない数字を使った論で政治を動かすことは極めて危険な行為であることを知っているからなのだ。
意図は分かる。
しかし、あのやり方はやってはいけないやり方なのだ。
『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と述べる者がいたとしよう。
その者が『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と主張してその後にある主張をしたとしよう。
そして、その主張に賛同できるものであったとしよう。
しかし、『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』という文言を使うとその人物は結局は信用されなくなる。
その人物は、根拠を示すことが出来なかった。
最も重要な係数の根拠を示すことが出来なかった。
その時点で学術的にはアウトなのです。
意図は分かる。意思も分かる。有能であることも確かなのです。
しかし、あのやり方はまずい。
あのやり方がOKならば、どんな数字でも当てはめることが出来てしまう。
どんな数字でも当てはめることが出来るならばどんなことでも主張できるということなのです。
同じやり口で反論されたらどうします?
例えば、『このままでは年間で日本人の自殺者が100万人になる』と主張する者が現れて真逆の政策を述べて政府の意思決定機関に潜り込んで政府の意思決定を動かそうとしたなら、どうします?
根拠は重要なのですよ。
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