狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

高慢と云ふは、我れと我が身を自讃して、世に是れにまされる事あるべからずとおもふものあり。是れ大なるあやまりなり。

2019年09月19日 09時42分09秒 | その他の日記






 以下の文は、AERAの「夏でも冷蔵庫なしで無問題! 野菜はベランダのザルに放置でOK」と題した稲垣えみ子氏の記事の転載であります。

『稲垣えみ子「夏でも冷蔵庫なしで無問題! 野菜はベランダのザルに放置でOK」


 元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。



 5度目の冷蔵庫のない夏が終わった。今や冷蔵庫の利点が思い出せない。だって食品の保存、全く無問題である。

 基本、当日食べるものしか買わないからなんだが、それでもやはり余る。日本の野菜はセット販売。こちとら一人暮らし。なので残った野菜はどうするかというと、・ビニールから出す ・ベランダのザルに放置 という簡単ツーステップ。真夏だろうがこれでOK。徐々にしなびてはいくが「干した」と言い換えている。「火を入れた」とも言う(太陽は火)。つまり形状は変わるが腐敗は防げる。しかも超長期。冷蔵庫、敗れたり。

 このようなことを繰り返すうちに、私の脳内イメージはあるストーリーを持ち始めた。店から帰宅するや否や、ビニールという牢獄から急いで野菜を救出するワタクシ。すると野菜が「はあ……生き返った」と深呼吸している。ああいいことした! とヒーロー気分に浸るのである。

 などと一人勝手にアホな寸劇を繰り返していたのだが、実はこれ、案外真実に近いことが最近判明した。

 いつも行く八百屋の店長と親しくなり、一体なぜ野菜はことごとくビニールに入っているのかと、ノープラ生活を目指すものとしてかねての疑問をぶつけたところ、ちゃんと理由があったのだ。野菜は収穫後も生きている。生きているから老いていく(しなびていく)。なのでビニールに入れ呼吸困難にさせて仮死状態にする。すると見た目の鮮度が保てるのだと。なるほどそういうことだったか。確かに見た目ピチピチじゃないと売れないだろうな。でも仮死状態はいずれ本当の「窒息死」となる。だからビニールに入れたままほったらかしておくと腐ってしまうのだ。

 冷蔵庫もおそらく同じ理屈である。冷やすことで野菜を仮死状態にするから短期の鮮度を保てる。だが放置すれば死んでドロドロである。

 私は野菜に「老い」という時間を与えていたのだ。この老いた野菜が案外うまい。歯ごたえがあり味わい深く、ピチピチには出せぬ滋味がある。人と同じである。

 AERA 2019年9月16日号 』
                             転載終わり。



 個人で電気を使用しない生活を楽しむというのならばそれは「好きにしてくださいな」でしかありません。面白いかもしれません。
 しかし、社会全体が電気がない状態になるとどのようなことになるか? 
 稲垣えみ子氏はそのことを全く理解していません。
 そして稲垣えみ子氏は個人では電気を使用していないのでしょうが、しかし稲垣えみ子氏を生活していく上で莫大な電気が使用されていることを稲垣えみ子氏は理解していません。理解しようともしていません。
 稲垣えみ子氏は自分では冷蔵庫を使っていないようですが、これは単に他者の冷蔵庫を稲垣えみ子氏が利用しているだけでしかありません。
 全く冷蔵庫を使わないのならば、稲垣えみ子氏のところまで野菜は届きません。
 これはあらゆる流通の部門で同じことが言えます。
 全く電気が使用できないならばほとんどの物資は稲垣えみ子氏のところまで届きません。
 全く電気が使用できないならば多くの物資は生産することさえも厳しくなります。
 稲垣えみ子氏が使用している莫大な電気は稲垣えみ子氏が負担しているのではなく社会で負担しているのです。そのことを稲垣えみ子氏は理解しようとしていません。
 他者に依存しているにもかかわらず、他者に感謝することもありません。他者に依存していることを知ろうともしません。

 勿論、我等は我等の為に社会のインフラをタダで使おうとする人達をも内包して許容する必要があります。
 しかし社会全体で電気が無い状態を推奨する馬鹿連中は無視するしかありません。電気が無くなれば人は簡単に死ぬのですから。

 省エネの考えは大事です。
 エネルギー政策を論ずることは大事です。
 しかし「社会全体で原始に戻れ」という戯言には耳を貸す必要はありません。その主張は原始から今迄の人類の叡智と努力を無視した主張で尚且つ人が簡単に死ぬ社会に戻す主張だと言えます。
 人は、現代だからこそ生き残ることができる人が大半なのです。
 ありとあらゆるところで電気は使われています。
 社会のインフラの電力にタダ乗りしておいて電気を使うことを小馬鹿にする。そのような人は他者の存在を無視しています。

 繰り返しますが、個人で電気を使用しない生活を楽しむのならばそれは別段構わないのです。
 私は、稲垣えみ子氏の他者の努力や労力を無視していることが気に入らないのです。
 他者の電力にタダ乗りして大量の電力を使いながら電力を使うことを小馬鹿にしている。その傲慢さが気に入らないのです。



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