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memento mori

2020年07月01日 12時52分43秒 | その他の日記
 以下の文は、森田洋之氏の『人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える』と題した記事の転載であります。



  人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える
  森田洋之  2020/4/14



 「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」
 一人の医師としてこの言葉を聞いたとき僕はすべての思考がストップしてしまった。
 友人との会話中でなければ泣いてしまったかもしれない。 
 そうなのだ。
 不意に思いを言い当てられて自制が出来なくなるくらいには、僕はこの国の医療に対して思い悩んでいたのだ。
 僕は、僕がそんなに思いつめていたことに我ながらびっくりした。 
 おそらくその言葉は、僕がそれまでなんとなく感じていた「この国の国民と医療の世界に蔓延するモヤモヤ」をズバリと言い当てたのだろう。
 だからこそこんなにも僕の心をかき乱したのだ。 
    今回はそのモヤッとした空気感を自分なりになんとか言葉にしてみようと思う。
 自分の気持や空気感を描写すると言う作業に慣れていない僕にとって、これはかなり困難な作業になりそうだ。
 拙い表現になるとは思うが、しばしお付き合いいただけると幸いである。 
  
 皆さんがこのことをご存知なのかご存知ないのか、僕には分からない。
 しかし「人間の死亡率は100%」だ。
 僕の医者としての経験上それは多分間違いない。
 人間は必ず死ぬ。 
    新型コロナ肺炎だけでなく、インフルエンザでも、普通の肺炎でも、ガンでも心筋梗塞でも…原因は無数にある。
 人は死ぬのだ。 
 ちなみに、冬季の流行シーズン中は毎日100人くらい、年間で1万人くらいの日本人がインフルエンザ、もしくはそれに起因するざまざまな病態(インフルエンザ超過死亡という)で死んでいる。 
 交通事故で3千人〜5千人、インフルエンザで1万人、自殺で2〜3万人の日本人が毎年毎年死んでいるのである。
 ちなみにこれだけ大騒ぎしている新型コロナ肺炎は、この世に登場してから通算でまだ100人しか日本人を殺していない(2020年4月半ば現在)。
 もちろんまだ増える可能性はあるが、自殺のレベルにまで到達するかは疑問である。
 そういう意味では致死率が80〜90%にのぼるエボラ出血熱やコレラなどとは基本的に全く違う感染症と言っていい。
 当初から言われているとおりコロナ感染者の8割は軽症もしくは無症状。
 残りの2割は入院が必要なくらい重症、そのうちのわずかな人が死亡に至る。
 致死率はインフルエンザの10倍とも言われるが、死亡者の大半は高齢者や基礎疾患のある方である。 

 こんな言い方をすると必ずこう反論される。 
  
 「高齢者は死ねというのか!?」 
  
 それは間違いである。
 僕が言いたいのは 「高齢者は死ぬ」 だ。 
 いや、さっきから言っている通り正確には、「人は死ぬ」と言ったほうがいい。 
  
 こんな言い方をする僕は冷酷なのだろうか。
 人の死を数字で語る僕は非人間的な医師なのだろうか。 
 たしかにそうかも知れない。
 ただ、これだけは言っておきたい。
 僕はコロナで亡くなられた志村けんさんの人生を昔から知っていた分深く悲しんだ。
 しかし、それと同じくらいインフルエンザや肺炎やガンで亡くなられた多くの名もなき人たちの人生に寄り添い、悲しみを共有し、そして見送ってきた。 
 あなたはインフルエンザで亡くなられる人が毎日100人もいる事実をこれまで少しでも深く考えたことがあっただろうか? 
 あなたたちがいままで見てこなかった、あるいは知っていたとしても無視あるいは軽視してきたたくさんの死に僕は向き合ってきた。
 志村けんさんの人生の物語を知っている人はとても多い。
 だから日本中が悲しみに包まれ「コロナ憎し」という空気が出来上がった。
 でもね、これまでインフルエンザや肺炎や自殺で亡くなられた何万という人たちにだって、一人ひとり、それぞれに人生の物語はあったのですよ。
 僕に言わせれば、これまで高齢者医療にも終末期医療にも自殺問題にも殆ど見向きもしなかったあなた方、いまコロナで自分や家族の命が脅かされそうになって初めて大騒ぎしているあなた方のほうがよっぽど冷酷に映る。 
  
 そう、本当に残念なことだが、人はふとしたことで命を落とすものなのだ。
 これだけ医学が進歩しても、助けられない命は無数にあるのだ。 
  
 もちろん、助けられる命は全力で助ける。
 それが医療だし、それが医師だ。 
 しかしそれでも、リスクは決してゼロにはならない。
 なぜなら人は必ず死ぬのだから。
 いや、むしろ、リスクゼロを追求するべきではないと言ってもいい。 
 リスクをゼロにしようとする医療側の真摯な努力が逆に様々な弊害をもたらしてしまうことは、医療の歴史を鑑みれば容易に想像が出来るのだから。 



 「医療によるゼロリスク」の危険性 
  
      
 医療によるゼロリスクの追求は様々な弊害を社会にもたらしてきた。 
 その最大のものはやはり「高齢者」に対する医療だろう。 
 先程「高齢者は死ねというのか?」と言う意見に少しでも共感された方には是非この点を認識していただきたい。 
 批判を恐れずに率直に言う。 
 高齢者医療の現場である病院・施設は「ゼロリスク神話」による管理・支配によって高齢者の収容所になりつつある。
 誰しも高齢になれば自然に足腰も衰える、転倒を予防したければ「歩くな」が一番の予防策だ。
 今高齢者が入院する病院では、ベッドに柵が張られていることが多い。
 トイレに行きたいときは看護師を呼んで車椅子移動。
 行動を制限された高齢者の筋力・体力は急速に落ちていく、そして寝たきりになり、排泄はおむつになる。 
 また、誰しも高齢になれば飲み込みが悪くなる。
 食べては誤嚥し、肺炎を発症する。
 誤嚥性肺炎を予防したければ「食べるな」が一番の予防策だ。
 今高齢者が入院する病院・施設は、鼻から胃袋まで管を入れられる、もしくはおなかに直接穴を開けられて胃に栄養を送る経管栄養の高齢者で大賑わいだ。 
 こうして高齢者は入院・入所した途端に行動を制限され寝たきりになっていく。 
 多くの高齢者の願いは、「自宅で好きなものを食べて、自分らしく生活をしたい」という至極単純なものだ。
 それなのに、世間や医療のゼロリスク神話はいともたやすく高齢者の生活を奪ってしまう。
 リスクを恐れるあまり、多くの高齢者は今「かごの鳥」になっているのだ。(ちなみに僕は彼らを一人でも多く救いだすべく活動している) 
 この傾向は今回のコロナ騒ぎで確実に深刻化している。
 病院や高齢者施設はいま、完全に他者をシャットアウトしつつある。
 家族でさえ面会が困難な状況だ。 
 そしてその状況に至るまでの道程の片棒を担いだのは(もっと言えば先導したのは)我々医療従事者である。 
 「命を守る」「〇〇しないと死ぬ」という恐怖のメッセージは、我々の想像以上に効果的だったのだ。 
 今この恐怖のメッセージは、高齢者医療から新型コロナウイルス感染予防へ場を移し、猛威を発揮し始めている。 
 中国ではスマホの位置情報で個人の行動が管理されているという。
 韓国でもスマホの位置情報で感染者との接触情報が管理されているという。
 そして日本でもこの動きは少しずつ進展している。 

 (表示の都合上、自分のツイッターを貼っております。)
    感染防止にスマホ位置情報 政府検討、プライバシーは?
    :朝日新聞デジタル https://t.co/retIru5sx0 #新型コロナウイルス
        — 森田洋之@総合診療医・医療経済ジャーナリスト (@MNHR_Labo) April 14, 2020

 医療による死の恐怖は、まるで国民全体を徐々にカゴの中へ誘っているのかのようだ。 

 もちろん、今は緊急事態だから仕方ないのかもしない。
 ただ、一旦進んだ時計の針は戻せないのも現実。
 一度許してしまった権利の制限は、今後様々な形で進んでいくだろう。 

 もちろん、清らかな医療者は「医療による恐怖で世界を支配する」なんてかけらも思っていない。
 しかし、コロナパニックは「医療的な恐怖で世界を動かせる」ことをにわかに証明してしまったのだ。 
  
 これまで何百年もかけて人類が一つずつ獲得してきた様々な社会的な権利。
 それらを一時的にとはいえ一気にむしり取るという前代未聞の体験を、いま僕たちは「コロナ」を理由に経験している。
 医療は、これまで誰も持ち得なかった「国民の人権さえも制限できる巨大な力」を持ってしまったのだ。
 「命を守る」の殺し文句がこれほど効果を持つとは……。

 この力を利用しようとする勢力は確実に現れるだろう。
 それが国家なのか巨大資本なのかGAFAなのか、それともその全部なのか。
 それらが牙を剥いた時、果たして我々医療者はその巨大な力に抵抗できるのだろうか。
 いや、上手に牙を剥く彼らは、我々医療者が気づかないように…医療者を盾にして国民の目をそむけながら、手を進めるだろう。 
  
 もう一度言う。 
 「人は必ず死ぬ」 
 死はいつも身近にあるのだ。
 新型コロナ肺炎だけでなく、インフルエンザでも、普通の肺炎でも、ガンでも心筋梗塞でも交通事故でも…人は死ぬのだ。
 世界に目を向ければ、3大感染症(結核・マラリア・HIV)で一日7千人もの人が亡くなっているのだ。 

 自動車を製造を止めれば、交通事故で死ぬ年間100万人の命を救えたはずだ。
 でも僕らは歴史上決してその選択肢をとらなかった。 

 意識するかしないかに関わらず、我々はリスクと共存し、それを許容して生きてきたのだ。 
 それなのに今、コロナによる恐怖と医療従事者による「ゼロリスク」の先導は世界中の経済を止め、生活を破壊し、人々は自らカゴの中に入ろうとしている。
 そして巨大な権力は近い未来、医療が持つ壮大な力を巧みに利用するだろう(もしかしたら今がその時かもしれない)。
 得るものに比べて失うものが大きすぎはしないだろうか。
 バランスが圧倒的に悪過ぎはしないだろうか。 
 その時になって我々は、「あ〜、あのコロナパニックが始まりだったんだ」と気づくのかもしれない。 
  
      
 そんな未来を子供達に残してしまうのか…しかも自分たちがその片棒を担いでいるのか…。
 漠然とそんなことを思っていた時に聞いたのが、 
 「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」 
 と言う言葉だったのである。 
  
 僕が感じている漠然としたもやもや感を拙い言葉で表現すると以上の様になる。
 いや、自分の今の気持ちをきちんと文字で表現できたかどうか…自分の拙い表現力に悔しい気持ちでいっぱいだ。
 でもこれが今の僕の限界だろう。
 仕方ない。
 僕は今ここで筆を置く。 

 最後までお読みいただきありがとうございました。 
  
 追記:
 これまで、BCGワクチンがコロナに効いてる?とか、圧倒的に低い日本の死亡率などの「安心材料」的な記事を書いてきたのは、そんな「医療的な恐怖で世界が動いてしまう」ことへのささやかな抵抗だったようにも思います。(もちろん、きちんとデータの裏付けをとった確からしい情報書いているつもりです。反発心だけで書いているわけではありません)


 追記2:
 決してコロナウイルスの感染拡大予防対策を否定しているわけではありません。
 高齢者医療に日々接している僕は、2月から旅行もキャンセルしていますし、多分誰よりも日々の手洗いをしています。
 ただそれは医師としてのモラルから、リスクがゼロにはならない前提で、出来る範囲のことを自発的に行動しているものです。
 決して国から指示されたものではありません。
 社会全体として「圧倒的にバランスが悪い」という主張の趣旨をご理解いただけますと幸いです。
                                 転載終わり。



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