1952年1月18日。
韓国の李承晩大統領によって海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線-いわゆる李承晩ラインがどの国とも協議することなく勝手にひかれ、竹島が韓国の支配下にあると一方的に宣言しました。
自分勝手であり傍若無人な行為で侵略行為です。
1952年のこの宣言から1965年の日韓基本条約締結までに、韓国軍はライン越境を理由に日本漁船328隻を不当に拿捕し、日本人44人を死傷(死亡者数は不明)させ、3929人を不当に抑留しました。
韓国側からの日本の海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件。日本の海上保安庁巡視船が16隻攻撃されました。
韓国政府が勝手にでっち上げた李承晩ライン内に出漁した日本漁船は韓国軍によって銃撃事件や拿捕が相次ぎました。
日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となりました。
1952年2月4日。
第一大邦丸事件で第一大邦丸の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。日本人漁師の瀬戸重次郎氏が殺害されました。
この事件は韓国軍による民間船への無警告攻撃行為です。
第一大邦丸の日本人船員は、憲兵によって韓国警察に引き渡され、船内の私物や装備や漁獲物は警察に略奪されました。
日本人船員の負傷者は、手当てを拒否されました。
船員達は私物を売り払ってそのお金できちんとした病院に運ぶよう頼みましたが無視されて、負傷していた人は死亡しました。
第一大邦丸の船員達は、警察署の前の防空団詰所に監禁されました。
約4畳の広さの部屋に18人が監禁されました。
食料は一切支給されなかった為、船員達は船内食料で食いつなぎました。
その後、済州に船員達は送られ、韓国警察が作った嘘の調書に捺印させられました。
しかしその嘘が佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将にバレて、グリッチ少将と李承晩の会見で李承晩は遺憾の意を表して第一大邦丸の釈放に応じることになりました。
韓国側は終始日本人船員に対して非人道的な扱いをしていました。
1952年4月20日。
韓国の民間の準軍事的な前哨部隊が竹島に勝手に不当に駐屯しました。
1952年6月24日。
日本の水産高校の船舶が韓国の民間の準軍事的な前哨部隊に拿捕されました。
1952年7月12日。
日本の海上保安庁と島根県が竹島調査を行って「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てて竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させことを受けて、竹島に上陸していた韓国の民間の準軍事的な前哨部隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」に90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込みました。
韓国のこのような行為は大義名分は一切なく根拠もなく国際法でも韓国国内法においても非合法行為です。
国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為であり、傍若無人な侵略行為です。
竹島が韓国に不当に占領されたのは戦前ではありません。
戦後の出来事です。
戦前に韓国という国は存在していません。
韓国によって大勢の民間人が不当に殺され負傷し略奪され監禁されました。
日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、翌年の1947年5月3日に施行されています。
日本国憲法が施行された後に大勢の民間人が不当に殺され負傷し略奪され監禁されました。そして竹島を侵略されました。
今も竹島は韓国に不当に占領されたままです。
平和憲法があろうがなかろうが、侵略される時は侵略されるし、民間人が大勢殺されるときは民間人が大勢殺されるし、略奪されるときは略奪されます。
文言を念仏のように唱えたところで意味はありません。
具体的に何をするか? それを考え実行しないと意味はないのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます