解説板。
野火止用水
川越城主松平伊豆守信綱は、新田開発に入植した人々の生活水を確保するため、玉川上水から分水することを許され、現在の東京都小平市から野火止台地を経て新河岸川(志木市)にいたる全長約24キロメートルに及ぶ用水路を開削しました。
この付近の新田開発に入植した人々は、屋敷の近くに用水を引水しました。8軒の家が点在していたことから、この用水を八軒回し堀と呼んでいました。また、新堀とは、本流に対して、「新たに掘られた堀」の意味があり、「新堀八軒回し堀」とも呼ばれていました。現在、回し堀の大部分が遊歩道として整備されています。
平成22年3月 新座市 新座市教育委員会
※承応4年(1654)に完成しました。
大きな鯉の姿も。
新座市に属している。
暗渠になっているところも。
交差点名に「新堀」。
ここからは流れが見える遊歩道を。
すぐ脇は「水道道路」。
「西武池袋線」踏切。
この付近から右が新座市、左は、東久留米市になります。
「八軒」バス停。
振り返る。右は東久留米市に。
コーポレート清瀬駅南。
新座市新堀3丁目。
遊歩道が続きます。紅葉が見事。
東久留米市小山5丁目。
東久留米市側の緑地。
詳しい解説板。
武蔵野の中でも、野火止台地は特に高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越藩主・松平伊豆守信綱は、江戸の上水道である玉川上水を完成させた功績により、玉川上水から3割の分水許可を得ました。貞応4年(1655)、私領である野火止の地を開発する人々の生活水を確保するため、野火止用水が開削されます。工事は家臣の安松金右衛門が命じられ、その流れは小平市小川町から志木市の新河岸川までの約25キロメートルに及びます。のちに新河岸川に、いろは48の樋が架けられ、志木市の宗岡の水田地帯にも通水されます。また、寛文3年(1663)、岩槻にあった平林寺が野火止に移転されると、ここにも用水が引水されました。
幹線水路は、本流を含めて4流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は、通称「菅沢・北野堀」・「平林寺堀」・「陣屋堀」と呼ばれています。用水敷は、中央に水路敷が2間、その両側に1間ずつの土あげ敷があり、約4間(7.2㍍)の幅がありました。水路は、地形的に高い場所を選んで掘りつながれ、この地に入植した人々の喉と大地を潤し、野火止新田の開発において。極めて重要な役割を演じました。野火止用水は、信綱の功績を讃え、「伊豆殿堀」とも呼ばれています。
野火止用水の流れは、昭和37・8年頃までは付近の人々の生活用水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子ども達の姿を見ることが出来なくなりました。そこで昭和49年度から東京都と埼玉県・新座市で清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部を復原することで、野火止用水の流れを未来につなげています。
この先で、水道道路・野火止用水に沿って南西に進んでいた都県境は、鋭角で北西に向かいます。
2010年代のようす。1880年代のようす。
(「今昔マップ」より)
鋭角に折れる都県境。明治以来変わっていないようです。
正面が新座市、道路の向こう側は清瀬市。
清瀬市松山1丁目方向。
新座市新堀3丁目方向。
松山一丁目 アパート。
清瀬市のマンホール。
中央のマークはキヨセの「キ」を図案化した清瀬市章。周囲は、市の木ケヤキをデザインしたもの。