住宅地を過ぎると、畑や森が一面に広がる。
「ひまわり通り」からフェンス沿いの細道に入る。
真後ろは、「西堀三丁目憩いの森」 (新座市)。都県境は、その北側の縁沿いに進む。
※西堀三丁目地区にある緑地で、隣接する西堀二丁目憩いの森と合わせると、市内で最も大きな憩いの森。
写真を撮り忘れたので。 (「Googleマップ」より)
フェンス内は、林が広がる。
右手奥には、「米空軍大和田通信所」があります。
※都県境は、この敷地内を北に向かう。
米空軍大和田通信所
埼玉県新座市西堀、東京都清瀬市にまたがる在日アメリカ空軍基地施設の名称。施設番号はFAC 3056。
大日本帝国海軍大和田通信隊所属「大和田無線通信所」が、無線通信の受信・傍受施設として使用。戦後、気象通信所を経て米軍基地として接収。
当時の中央施設は2007年(平成19年)現在、日本の国有地で防衛省所管防衛施設庁北関東防衛局が管理し、在日米軍(米第5空軍374空輸航空団所属)と共同利用。当施設と送信施設の所沢通信基地は、無線送受信施設として一対を成す。当時の分室は現在、気象庁気象衛星センターが使用。
1936年(昭和11年)に開設された。2016年(平成28年)時点の敷地面積は1,197,700.81m2(私有地等758,857.03m2、国有地438,843.78m2)。本隊と中央施設内部に大型無線受信機23台、小型無線受信機200台設置。他に施設運用にあたる隊員用宿舎なども併設。
敷地内部には高さ6mの黒い木製主柱90本を等間隔に建て、水平方向にワイヤーアンテナ線を張り、支えの支線などもあった。主柱にはハワイ、シンガポール、マニラ、グアム、台湾など、受信地域名記載の木製札が掛けられていた。
自軍無線のみならず米英の無線も傍受解読していた。その他、特定地域の周波数変更内容や、日本本土を空襲したB29爆撃機の援護にあたるF6F戦闘機の使用周波数などが、1945年(昭和20年)当時の傍受月報の記載に残されている。
対米諜信活動(暗号解読作業)は軍令部第四部大和田通信隊A班の担当であったが、平文であっても英語を理解できる者が少なかったため、帰国米移民2世(1世に連れられて行った日本生まれの子供らや米国生まれの日系米人2世)が選抜され従事していた。
(この項、「Wikipedia」参照)
以下、「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝‐日本の近代と慰霊の地を巡りしサイト‐(戦跡紀行ネット)」HPより拝借しました。
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昭和9年(1934)に、「海軍東京無線電信所」の附属機関として無線傍受を専門とする「海軍東京無線電信所大和田受信所」の設置が決定。
「大和田受信所」は昭和11年に開設され昭和12年(1937)から本格稼働を開始。
また、昭和9年6月には、海軍通信隊令が施行。海軍無線電信所は海軍通信隊となり、「大和田受信所」は、「東京通信隊大和田分遺隊受信所」となっている。
昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦時に「東京通信隊」から独立した「大和田通信隊」となり、傍受を掌る通信隊として海外無線の傍受を行い、副受信所では、方位測定を掌る大和田通信隊分遺隊が展開された。
アンテナ群は東西1キロ、南北2キロ以上の広範囲に設置。受信機は主に現在の新座市に置かれていた。
この地域に受信設備が置かれた理由は、武蔵野台地の中心に位置しており、周辺には電波障害の要因となる鉄道。幹線道路・民家なども少ない環境であったためという。
「大和田通信隊」での受信実績(傍受実績)として、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」(モールス符号「・・―・・ ・・・」トラ連送)「ワレ奇襲ニ成功セリ」を受信。
米海軍が平文で打った「airraid on pearlharbor x this is not drill」(真珠湾が空襲を受けている。これは演習ではない)の電報も受信。
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また、終戦時の「ポツダム宣言」を受信したのも「大和田通信隊」。
戦争の最初と最後に「大和田通信隊」が絡んでいたのだ。
・・・現在、受信設備が置かれていた新座市には、「在日米軍大和田通信所」が引き続きアンテナ群を展開。
清瀬市にあった副受信所の一部は気象庁気象衛星センターとなっている。東久留米市域は東久留米団地として再開発されている。
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周囲には、畑が広がっています。
確かこの付近に「海軍用地」という標石があるはずですが、
「防衛施設庁」標石。道沿いに設置されている。
「海軍用地」の標識は、もう一本、東の道を進まなければならなかったようです。
この奥の道に?
遠くに「在日米軍大和田通信所」の高いアンテナが見えています。
「旧海軍境界標柱」。
(「Wikipedia」より)
にんじんを収穫中。
(「今昔マップ」より)
住宅地に入り、広い道路に出ます。
「下清戸」バス停。
「志木街道」になります。