イチゴ栽培のハウス?
「西田井」。
「益子(ましこ)」。
○益子の歴史
益子には、室町、鎌倉まで遡るような貴重な文化財が町の中心を取り巻くように点在しています。関東甲信越四大古塔のひとつとして知られるのが、西明寺の三重の塔。1537年西明寺城主益子家宗の建立で、和洋唐様の様式をもっています。本堂は1394年益子勝直によって開扇供養が行われ、1701年の大改修で現在のかたちになりました。中備のかえる股には十二支が刻まれています。純唐様式の楼門も威風堂々たるもの。このほか、山の玄関口に位置する大倉神社(807年)と綱神社(1194年)、側柱が角柱内部が円柱で阿弥陀堂式の平面を構成する地蔵院本堂(1504-1520)、大沢文庫を設けて名僧を輩出した円通寺(1402年)、日本で唯一、笑い閻魔大王を安置している閻魔堂(1714年)など、興味深いスポットは書き尽くせません。
○益子の歳時記
はっきりとした四季、ゆるやかな起伏の山、自然環境に恵まれた益子では、その風土を生かした農業や産業が営まれてきました。中心部から少し足を延ばせば豊かで懐かしさを感じさせる里山の景色が広がります。冬から春にはいちご狩り、初夏にはあじさい公園のあじさい、夏はブルーベリー狩り、秋には実った田んぼの眺めやいも堀りやりんご狩り、ぶどう狩りとその時ならではの味覚や景色が楽しめます。
益子焼は江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まると言われます。以来、優れた陶土を産出すること、大市場東京に近いことから、鉢、水がめ、土瓶など日用の道具の産地として発展をとげます。
(「KOGEI JAPAN」HPより)
「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」 と書き残す。
1955年第1回無形文化財保持者に指定される。
1968年文化勲章受賞。
1946年濱田庄司門下に。1962年日本民芸館賞を受賞。
1996年重要無形文化財保持者認定を受ける。
1955年第1回無形文化財保持者に指定される。
1968年文化勲章受賞。
古くから窯が開かれ、江戸時代終盤に大塚啓三郎により窯業が始まり、陶製日用品を作る陶器生産地として栄えた。大正に入り濱田庄司が「民芸」を持ち込み「民芸の町・益子」と謳われるようになり、その後、数多くの陶芸家志望の人々が移住し「陶芸の町・益子」を築き上げ、現在の「益子焼」を作り上げていった。
益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ・火鉢・壺などの日用品として製作されていた。その後、1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。1959年には、加守田章二が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた。
1979年には通商産業省(現・経済産業省)から伝統的工芸品に指定された。地域団体商標にも登録されている。また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。
砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。
益子焼の最も基本的な釉薬は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆ)である[6]。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りである。こうした昔ながらの施釉(せゆう)は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。
民藝運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。
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陶器市(祭)の時期ではないのか、乗り降り客はほとんどいません。機会があれば、駅周辺を歩きたいところですが。
周囲には田園風景が広がる。
「七井」。部活の高校生たちが下車。
「七井(なない)」とは「たくさんの井戸があった」の意味で、水資源が豊富な農耕に適した土地であったことに由来する地名。
生徒が渡った後、上り線に。
「多田羅」。
「多田羅(たたら)」とは、日本で近代にかけて発達した「たたら製鉄」が由来。
※たたら製鉄(たたらせいてつ、英:Tatara)
日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする[1][2]。近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った[3]。明治以降急激に衰退し、現在では、日本刀の原材料「玉鋼」の生産を目的として、北海道にあるものなどが稼働している。
「たたら」という用語は古くから「鑪」や「踏鞴」、「多々良」などと表記されてきたが[4]、それらは製鉄のさいに火力を強めるために使う鞴(ふいご)を指し、既に「古事記」や「日本書紀」にその使用例がある。また、近世以降に屋内で操業されるようになると、たたら炉のある建物を意味する「高殿」という表記も使われるようになった。
このような経緯から、「たたら」という言葉は製鉄法の他に鞴や製鉄炉、それらを収めた家屋をも指す広い意味で用いられたが、20世紀に入った頃より、特に製鉄法を指して「タタラ製鐵法」、「たゝら吹製鐵法」といった用語が使われ始めた。また、たたらで製鉄をおこなう工程のことを「たたら吹き」と言い、現在では「たたら製鉄」と同じ意味で使われる場合がある。
一方で「たたら」という呼称そのものの語源については不明であり、確実なことはわかっていない。一説によれば、サンスクリット語で熱を意味する「タータラ」に由来すると言い、他にもタタール族を介して日本にもたらされたためとする説がある。大和言葉に語源を求める説もあり、「叩き有り」からの転化、簡略化であり「踏み轟かす」の意、とする文献が存在する。
この地域に「たたら製鉄」所があったのか?